らくえんについて考える

南の島にバカンスにいっていきました。貧乏旅行ではなくて、金で楽園を買うみたいなかんじのやつ。

らくえんについて考える。

わりとぼくは毎日意味もなくつらいなーっておもいながら生活していて、じゃあそれの反対のもの、らくえんというものについて考えてみると、つまりぼくがつらいとかだるいとかめんどくさいとか感じるものがなにもない世界について考えてみる。無痛の世界だ。そういう世界に到達することはできるのだろうか、とか。今まではなんとなく、うなるほどの金があればそういう、らくえん、を手に入れることはできるのだろうなあと漠然とおもっていた。まずお金があれば働かなくていいし。

お盆休みがおわって、あ、働くのすごく嫌だっておもったけれど、一ヶ月もしたらバカンスだなともおもった。今回の旅行にはそういう、らくえん的な理想を抱いていた。南の島でだらだらしよーって。やはりここでも漠然と、無痛のらくえんを夢みていたのだろうとおもう。

そんでまあ行ってきたわけだけど、無痛のらくえんなんてなかった。夢のように綺麗な島だったけれど、船酔いはするし、食べ物にあたって半日寝込むし、珊瑚で足を怪我するし、無痛のらくえんではなかった。いやほんとにお腹壊したときは死ぬかとおもった。すごい勢いで尻から液状のものが、そして勢いがすごすぎて尻がひりひりして痛いの、出しても痛いし出さなくても痛い、そして出さなきゃ終わらない。地獄だ〜って叫びながらホテルのトイレに一晩中こもってた。

つまり無痛のらくえんは買えなかった。

ぼくはなにかつらいことがあると、つらい→しにたいっていう感じに考えてしまうんだけどなんですぐしにたいっておもうのか自分でも不思議だった。それはどういうことかというと、ぼくにとっての理想の状況が無痛のらくえんであって、それを阻害するありとあらゆる痛みが嫌で、でもその痛みって海外旅行に行くためには何時間も飛行機に乗らなきゃいけないみたいなものなのであって、でもそれすらもない無痛のらくえんを求めている。つらみを感じるとき、無痛のらくえんは遠のくし、それをより欲っする。でもまあ実際にそれを達成する方法はたぶん死ぬしかなくて、だからしにたいっておもうんじゃないかとおもう。

自分が理想とするところとそれに至る方法をよくよく知っている。のかもしれない。いいかげんしにたいとかうだうだ言ってる歳でもないし、そういうのも飽きてきた感じもある。