outer wilds とあと色々なこと

outer wilds というゲームを最近やっていた。主人公は宇宙飛行士で、SFループもの。主人公が死ぬとループ、死ななくても20分くらいで太陽が超新星爆発してループ。宇宙を飛び回って謎を解明していくというもので、かなりよかった。

惑星の運動とか、巨視的量子現象とかを利用した謎解きが面白い。ループものゆえに、次のループに持ち越せるのは知識のみで、パワーアップアイテムとかレベルとかは一切ない。プレイヤーがこの宇宙について深く理解するほど、ゲームは進み、世界の謎が解明されていくのがとてもワクワクした。とにかくネタバレを見ないでやってほしい。

ゲームの話終わり。

社会、情報が多すぎる。特にこの一年はコロナで情報が錯綜しており、とても疲れる。完全に私が処理できる情報量を超えている。いや、別に処理する必要はないんだが。それでも次から次へとやってくる情報を何かしら受け取って感情が動いたりするのがとても疲れる。私の脳がしょぼいからこうなのだろうかとかも思うけど、例えば緊急事態宣言が出たからテレワークみたいな判断は完全に支離滅裂していて、みんなもう正常な判断力がなくなっているのだなと感じる。

人間の理性や判断力はかなりしょぼくて、社会的な現象に対して個人で正常な判断を続けるのは多分不可能なんだ。その場合に情報収集と分析と意思決定を組織としてやっていく必要があって、それが社会であり政治であるのだろうけど、現状はどうも機能していないように感じる。各位適宜判断して頑張ってくれという感じで、しかし個人の判断力ではもう力が及ばないような現象になっているわけで、みんなもう結構一杯一杯なのでは。

目の前のことに集中する、というのはなるほど便利な言葉であるが、それは大局的な判断を留保しているにすぎない。例えば転職すべきか今の仕事を続けるべきかということに悩んでいたら、目の前にことに集中したら、そりゃ目の前には今の仕事がたくさんあるのでとりあえずそれを処理することになり、そもそもの問題には取り組めない。

目の前にある問題、というものをここ一年位考えている気がする。大人になると常に目の前に問題が存在する。それは仕事であったり家事であったりで、とりあえず片付けなきゃいけないことで、片付けたら次のものが発生する。学生であった頃の私は、一日8時間も一体そんなにやるべき仕事があるのだろうかと思ったものだが、それは私がまだ「生活」をしていなかったからだ。生活すること生きることは、やらなくてはいけないことに溢れているし、無限に発生する。

それらの目の前の問題に集中することは、フローに入って周りの雑音を遮断できて気持ちいいし、達成感もあるし、次から次へと捌いていくゲーム的楽しさもある。なんらかのスキルもつく。しかしそうやって一日が必要性で埋め尽くされてしまうことに不安を感じる。

なんとなく思うことは、「必要なこと」「考えるべきこと」「考えたことを実行すること」の3種類の行動があり、必要なことを最小限に抑えつつ、余計なことを考えないで、行動すべきなんだろうということ。しかし実際の生活にはトラップがたくさんあり、どうでも良い情報を無限に処理しているうちに、具体的にはツイッターを眺めているうちに一日は終わってしまうな?

もうちょっと肩の力を抜いた感じで言い直せば、もっと余計なことをすべきなのだろうと思う。必要なことでも気晴らしでもない、なんの役にも立つわけではないがダラダラとはできない行為を組み込む。それは必要性から引き剥がされている。必要性の生活にクラックを入れる気がする。文章を書くことは私にとってそういうものである気がする。

今年の目標なんていつも考えてないのだけど、先日ふと、「エタらない」というのが浮かんだのでそれを目標というかテーマ的なものにしようと思う。「エタる」というのはエターナル(る)の略で、プロジェクトとか創作物が永遠の未完成になってしまう状態を指す言葉らしい。確かに個人でやるものは自然消滅的に未完成で終わってしまう。今年は色々と未完成なものを終着させる年にできれば良い。

私はムーミン

 

私はムーミンだ。厳密にはムーミントロールだ。紆余曲折あって人間社会で暮らしている。ムーミンなので冬は冬眠するのだが、人間は冬眠しないので仕方なく冬も起きてる。なので冬はすごく眠いし精神が不安定になる。基本的に何もなければ冬をやり過ごすことはできる。しかし冬は、状態異常でHPがすごく低い状態、もしくはコップの水がかなり溜まった状態になるので、何か精神的に負荷がかかるとすぐにだめになってしまう。

最近色々とだめで、破滅的な思考の果てに破滅的な選択をしてしまうそうなるんだけど、それはあくまでも冬+負荷という状況によって発生した特殊な精神状態なのだ、ということを忘れてはいけない。私は正常で、正常な判断をしていると思うと、異常な判断を理性が支持してしまい、もっとだめになる。正気を疑え。春まで待つ。春まで。私はムーミンだから。

ところでムーミントロールの個体にムーミンっていう名前をつけるのすごいですね。人間っていう名前の人みたいな。

CyberCodeOnline

Cyber code online というゲームをやってる。
https://cybercodeonline.com/tabs/map

このゲームはIDE風のインターフェースとなっているので職場で仕事してるふりしながらできる、みんなもやろう、一緒にダンジョン攻略しよう。

Cyber code online、いわゆるRPGである。自分が何者なのか、何が目的なのかわからないが、SHANGRI LA CITY という多分サイバーパンクであろう街で、ビットコインを稼いだり、レイダーをやっつけたり、ダンジョンを探索したりする。

健康と睡眠と読書


健康のための8時間睡眠、冬は妙に眠くなるので9時間眠る時もある。一日につき24pt貰えて、明日には繰り越せない。それをどうやって割り振ろうかと考えるも、大半を労働に取られ、睡眠を差し引くともうほとんど残っていない。

よく眠ると明らかに体調が良い、ということを最近になって気づいた。しかし同時に、余暇の時間が削られてしまって今度は精神が悪くなってくる。ままならない。少し睡眠を削って何かする時間をとってみようと思った。とりあえず一週間くらいは。頑張ってみる。

世はコロナである。遊びに、行ってはいけないのだろうなと思う。自粛という言葉が頭をよぎる。しかしならばなんで電車に乗って会社に行っているのかということになり、頭がバグる。バグる。今年になってから社会は明らかに、建前と場当たりで回っており、それは前からそうだったのだが、禍になってしまいそういうのを隠す余裕がないというふうに感じられる。ストレスがすごい。私はこういうストレスにめちゃくちゃ弱くて、ストレスから身を守るためにみんな馬鹿なんだなと思うことにしている。しかしマルクス主義者は個々人の道徳や思慮の欠如を批判できないのでは?

カントを読む読書会を今年はやっていた。カントは重くて、カントを読んでいる間はカントしか読めないし、頑張って読んでもよくわからんという感じだった。先日終わって、反動なのか図書館で本を借りまくって雑に読んでいる。斉藤幸平の『人新世の資本論』がめちゃ良かったので、関連書籍を読んでいる。ケイト・ラワースとか、シャンタル・ムフとか、ジジェクとか。

以前に読書メモは読みながら都度書くといいのではないかというようなことをブログに書いたけど、それをやっている。都度iPhoneにメモっている。これは良くて、読み終わった瞬間に読書メモができている。ここ付箋貼りたいなって気持ちになったらメモする。問題は本を読んでいる間にiPhoneをどこに保持して置くかということで、ズボンのポケットは遠いし、膝の上だと忘れて立ち上がった時に落としそうで怖い、シャツを着ていれば胸ポケットに入れられるのだが、最近はあまりシャツを着ない。困っている。

本の読み方

 

自分の知識の量とかを冷静になって振り返ってみると、やはり本を読む量が足りていないと感じる。研究職ではない一般の人という点では、私は物知りの部類に入るのかもしれないが、実際に知識で何かをちゃんと考えようと思うと全然足りていないというか、知識が穴だらけですごい基礎的なことが抜けていたりと不便を感じる。

これは多分純粋に量の問題で、本をたくさん読むとある程度解決すると思う。私の知識は、質を論ずる段階にない。量が足りない。しかし実際に、本をたくさん読むというのはどういうことなのだろうか。私は頑張っても月に5〜10冊くらいしか読めない。ちょっと歯応えのある本に取り掛かると一冊に1ヶ月以上かける。どうすればたくさん読めるのか。

一冊を、ちゃんと読んで理解するという考え方が間違っているのかもしれない。ちゃんとじっくり読むぞ!となると時間がかかる。ざっと読んで、どこに何が書いてあるかの記録と記憶を残して、あとで参照しに戻ってくるくらいの軽さで読むといいのかもしれない。どうだろう。文学作品のこととかは考えてないな。

あと金の問題。本は高い。高いので一冊一冊やはり買うかどうかちょっと迷う。本は買うものという認識が悪くて、図書館を使う。金が足らん。

読書メモ。読書メモの作り方は色々試行錯誤していて、とりあえず読みながら付箋を貼っておいて、読み終わった後に付箋を回収するようにメモをつくるという感じでやっているのだけど、それだと読み終わった後に作業が、しかも結構膨大な作業が発生する。読書会の課題本でレジュメを作ったり、特に気に入った本ならばそういう作業も厭わないが、そこそこの本だと放置されて、謎の付箋だけが残ることになる。

なので結局、読みながらメモを取るというのが良いのかもしれないと最近思う。大体常にiPhoneは持っているので、読みながら気になったところのページとなんか感想なり書いてることなりを一言メモる。これはこれで面倒くさいけど読み終わった後に作業が発生しない。

そういうわけで昨日は職場近くの図書館の利用登録をしてきた。

ミルクティー

生きてるだけでいっぱいっぱいという感は常にあり、今日もなんだかよくわからないし心当たりもないけどなんだかストレスがやばいことになって、ストレスやばいなーって思った。ので、ミルクティーを作って飲んでる。程よい温度のホットミルクを一気飲みする快楽が存在する。

Kindle Unlimitedにまた入った。あれは退会してしばらくするとまたお試し価格で入会できるシステムのようで、たまにチェックする。今回は2ヶ月99円だかで入った。Kindle Unlimited、はっきり言ってラインナップもクソだしこれに金払うやついんのかよって感じのサービスだが、光文社新約古典文庫が読み放題という一点で価値がある。後はマジで読むものがない。以前はクソみたいなビジネス書や自己啓発本を読んでクソみたいだなって思う遊びもしていたが、それもすぐに飽きてしまった。漫画が2巻まで読めるみたいのも一体なんの意味があるんだろうな。ただのお試しじゃん。

久しぶりにミスドのドーナツを食べている。コンビニドーナツにも、クリスピークリームドーナツにも負けなかったミスド、すごい。そして美味しい。昔に比べて小さくなった気がする。

 

幸福について

ツイッターめっちゃ見てる。というかiPhoneがそれ以外に使っていない感じがある。でも見てるだけあんまりポストはしてなくて、なんというか、断片的な言葉をぽつりぽつりと投げていくというのに飽きた感じがある。ブログで500文字くらいだらっと書くのが良いなと思う。だらっと。今のTwitterの仕様がすごく連投しにくいというのもあるのかもしれない。なんとなく使いにくい。

だらっとではなく書きたいこともあるのだけど、なんだかめんどくさくてまあいいやとなってしまう。

幸福について考える。私も若い時分はつまらない大人になりたくないなどと思っていたが、結局どうなっただろうか。しかしかなりいい歳になっても拗らせている人はたくさんいるし、つまらない大人ではないことを証明しようとして、なんだか致命的なやらかしをする人もたくさんいるなあとも感じる。現代の日本において人並みに幸福になることは難しいのかもしれない。少なくとも私やの世代やもっと若い世代はそう考えているんじゃないかなと思う。そんな中で、ひとりのつまらない大人であるという類の幸福を受け入れられるのは、自意識や拗らせを乗り越えた一部の人間にしか到達できない場所なのかもしれないと思う。しかし、やはり、みんな、何もかも諦めて受け入れたような顔をしながら、虎視眈々と何かを狙っているのだ。そして不意にやってくるチャンスに飛びつくが、そういう気持ちをうまいこと救ってにんじんをぶら下げる詐欺師はいつでもどこにでもいるもので、それゆえに身を滅ぼす。何をすべきなのかはやはりわからない。私は退屈な大人になり、少なくとも今はその退屈さを受け入れる程度に幸福で、それは幸運なことなのだなと思う。