筋トレ、プラトン、暮らしの本

通っていたジムがリニューアルで値上げするとのことで、解約してしまったのが半年前。体重も少し落ちてきてしまったのでまたトレーニングでもするかとおもって市立体育館のトレーニングルームに行ってきた。びっくりするくらいきれいで、マシンもそろっていて、フリーウェイトがないのが残念だった。久しぶりに体を動かすとほぐれる感じがしてきもちよかった。最近肩が凝っていたのは運動不足だったからか。

プラトンの「国家」が届いていた。週末までに読まなければいけない。読書会だ。このような機会がなければ決して読まなかっただろうなと思う。特に国家は長いし。

生活をなんとかしよう週間なので、家の掃除というか片づけをしている。片づけはリファクタリングに似ている。全体の振る舞いを破壊しないように影響範囲の小さいところから片づけていく。これを無視して、全体を一気に変えようとするとなにもかもぐちゃぐちゃになったところで月曜の朝を迎えて破滅する。

片づけた結果は見た目はそれほど変化しないが、内部構造は整理されて、不要なものは破棄され、必要なものによりアクセスしやすくなる。部屋のある部分がきちんとした構造をもって存在しているということは精神にとても良い。全体が破滅的であったとしてもだ。

丁寧な暮らし的な本を読みあさっている。読者の対象は主婦がメインで、仕事と育児と家事を効率よく両立するにはという視点のものが多い。気になったのは。夫との時間を大切にするという記述がよく見られることだ。なんだろうな、そういう、すてきな奥さんロールモデルは男性からすれば好意的なのかもしれないが、当の女性からはなんというか、くそだなって思われていると思っていたので以外だった。

暮らしの本に「夫」が登場することはほとんどない。子供はまだ、子供に手伝ってもらうとか、子供が楽しく過ごせる部屋づくり的な視点で登場する。そこで「夫との時間を大切にする」というような記述で突然夫が登場するもんだから、しかも何回も、不気味な感じがする。

ああ、編集者か編集長か、最終的な意志決定をする人が男性で、そういうすてきな奥さん感を差し込んでおくと通りやすい的な配慮なのかもしれない。

生活をちゃんとするとはなにか

生活はすぐに破綻する。気づけば本と服とゴミで床が見えなくなってしまう。掃除機を最後にかけたのはいつだったか。

生活をちゃんとするということはどういうことなのだろうか。私は生活をちゃんとしたい。ちゃんととはなにか。毎日掃除をしていればちゃんとなのだろうか。そうなのだろう。

丁寧な暮らし的な本を読むと、コンロを使ったついでにすぐに掃除しましょうなんてことが書かれている。無理だ。めんどくさすぎる。使った直後のコンロは熱くて掃除ができないし、冷める間で待っていたら忘れる。収支そんな感じで、めんどくさすぎる無理ということになってしまう。

丁寧な暮らしまでいかなくとも、ましな暮らしはしたい。ものの隙間にわずかに見える床を飛び石のように移動するのはストレスだからだ。まずめんどくさいという概念の上書きが必要なように思える。

キルケゴールが言うには、キリスト者はもっとも恐ろしいものを知っているが故にそれ以外をおそれない、とのこと。わたしももっともめんどくさいものを知れば、それ以外をめんどくさがらなくなるのかもしれない。

生活は難しい。

雨と酒

雨がふると人々がどこからか傘をとりだすのがすごいなとおもう。道を歩いていると急な雨でもだいたい8割くらいのひとは傘をとりだす。だいたいわたしは傘を持っていない。

わたしはあまり酒を飲まないというか、飲めないというか、日常的に日課として飲酒をしないのだが、ここ数日はなんだかんだと飲んでいて、飲んでいるといっても1日に一杯程度なのだが、そうするとなんだか今日も飲みたいなという気持ちになるのが不思議だ。これもまた中毒なのだろう。なにもかもなにかしらの中毒なのかもしれない。1日三食食べることとか。

なので今日は飲酒しなかった。

興味というもの

わたしは他人に興味がないのだろうかとかたまに思う。しかしそもそも一般的に人は人にどれくらいの興味をもつものなのだろうか。べつにどうでもいいんじゃないか。

こないだラジオを聴いていたらお一人様の本を書いたみたいなひとが出てて、一人でカラオケいったり焼肉いったりすることの本らしい。それについて、パーソナリティが、ひとりであそぶことの難しさみたいなことについて喋っていて、それはもしかすると一般的に人がどれくらい人に興味を抱くものなのかという指標なのかもしれない。

ところで一人焼肉というのは最高で、ベストのタイミングで肉を食える。肉との対話。

ラジオによると、遊ぶということは人を誘うのがデフォルトで、ひとりで遊びに行くのは例外的であるという感じだったのが驚いた。わたしはひとりであそぶのがデフォルトで、人を誘うのは例外だ。その遊びの事柄にとても興味がある友人がたまたまいれば、誘うこともある、くらいのことだ。そもそも興味があるかどうか微妙な事柄に人を誘うことが難しいし、そんなに多くのひとが興味を持つことにわたしが興味を持つかどうかもむずかしい。

統計学をちょっとやる必要がでてきたのでアマゾンで人気の統計の教科書を買った。たしか大学の単位は落としている。いかにも教科書然とした本を買うのはとても久しぶりだ。そんなにしっかり数式を追うでもなく雰囲気で読んでいるけどおもしろい。グラフをかいてみて、なんとなくここに傾向とか相関があるっぽい気がする〜というのをちゃんと評価するにはどうしたらいいかというものだ。

surface go がほしい気持ちになっている。パソコンなんてずっと欲しくなかったのだけど急に最近ほしくなっている。でも冷静になってみると別にいらない。冷静になるとあらゆるものがいらないし、生きる意味もない。

生きる意味がないことを幸運に思うべきだ。ということばを急に思いついた。

朝起きて、労働をして、帰ってきて、ぼーっとするか酒を飲むかゲームをするかして寝るという一連の中に行為的時間がない気がする。必要だからやっているという気がする。あらゆることが。ぼーっとするのもゲームするのもなんらかの必要性に駆られてやっている。不必要な物事を意思の元に引き寄せるというような行為がない。

まあ、べつにいいんだけど。自省的なことを考えるときはすぐに、まあべつになんでもいいんだけどと考えることでシリアスになりすぎるのを防ぐ。

家にお茶や水がないので喉が乾くと酒を飲んでしまうのダメな気がする。麦茶を作ろう。

人生において、麦茶を美味しく感じるタイミングとビールをおいしく感じるタイミングが一緒だった。

写真は昼に食べたアンチョビピザです。

ピクニック

いい天気なのでサンドイッチを作ってピクニックに行った。前回のピクニックではレジャーシートを持っていったのだが、レジャーシートはあんまり良くないことがわかったので今回は椅子だけ持っていった。椅子はヘリノックスのパチモンを持っていて、これがなかなかいい、 レジャーシートは抽象レイヤーを持っていないため、地面の情報を全て伝えてきてしまう。地面の微妙な傾きとか凹凸を全て拾ってきてしまうので、具合が悪い。

椅子は脚部分で抽象化されるので、どのような場所においても椅子の座り心地を維持できる。素晴らしい。 サンドイッチは8枚切りのパンで作り、四等分して一つ一つラップで包んだが、包む工程がめんどくさかった。タマゴサンドはぎっしり詰めたいが、そうすると切るのが難しい。

日曜が終わり、月曜がやってきた。つぎ作る本のための本をもってでかけた。金曜日に酒を飲む人がいるが、酒を飲むなら月曜だろと思う。金曜はむしろこれから「始まる」ので、よっている暇などないのだ。そして「終わってしまった」月曜日に飲むのだ。 やるべきことややりたいことを、なぜやれないのかという疑問がある。端的にいえばそれは夜も朝もsekiroをやっているからなのだけどそういうことではない。構成要素はタスクと時間と習慣である。具体的なやるべきことがあり時間を作り、習慣があるとまわりはじめる。ここに意志の力を入れなかったところが人生経験を感じさせる。

何かの拍子に早起きしてもはてなにをやるべきだったけとなって結局終わってしまう。いつでもできることはタスクを書き出すことなのだろうおもう。

日曜夜の社会性

文字や文章を書くと社会性が芽生える気がする。気のせいかもしれない。気のせいでなかったとしてもその程度の社会性に一体何の意味があるのだろう。 社会性といえば、日曜にそれが極限まで下がり、月曜の通勤とともに取り戻される感じあるので、月曜の通勤中に話しかけられるとバグる。

何故かバッグの類が好きである。なぜだろう。最近はサコッシュにハマっていて、今年に入ってもう3つ買ったし、2つくらいは我慢している。たぶんバッグというものの実用性とデザインのバランスが好きなのだとおもう。服はあんまり実用性に傾いてないというか、デザインよりすぎる。

突然ディスるんだけど、なんだっけ、開くPCバッグ? あれは極めて実用的かもしれないけど絶対に私が持つことはないなと思っていて、それはダサいからだ。実用に振りすぎたバッグはつまらない。

文章を書いて加速したい気持ちがある。あれをやろうこれをやろうとおもってやらない日々がある。ケツイで何かが変わってほしい。わたしはただ行為がしたくない。

明日の弁当をつくるのを忘れている。眠れないくてワインを飲んだ。Adobe のフォトプランをまた契約した。

勇気とか

漠然と何かをやりたいとおもう。わりといつもそう思っている気がする。なんとなく、恒常的な無力感があるのはなぜだろうか。なにをやってもなにもやり遂げられないというふうな感覚がある。そんなにたくさん挫折してきた訳というふうでもないのに。こういうとき、もしかするとわたしは幼少期に無力感によってコントロールされていたのかもしれないなとおもう。思えば父も母も自己肯定感の低い人間であり、世界を恨んでいたように感じる。明白にそのような態度を表すわけではなかったが、そういう鬱屈さの反動としてのこういがわたしにしわ寄せられていたような気もする。今になって振り返ってみるとそういう気がする。

まあ、記憶は改ざんされるもので、ただ単にわたしの現在のつらさの説明としてそういう物語を捏造しているという面もたしかにあるだろう。

大人になると、大人になるということはどういうことなのかわからないが、便宜上こういう表現をする、大人になると、勇気を出す機会がが減る。そんな気がする。わたしは中学生や高校生の頃よりも今のほうが生きやすい。あの頃はもっとつらかった。名付けようのない感情と絶望と、逃げ場のない社会があった。

大人になるとずいぶん楽になった。生活もなんとかこなせるようになった。そうするとあまり日々に勇気をだすような機会がへっているかもなとおもった。勇気を出すというのはひとによって異なるだろう。ある人にとっては一人で焼肉に行くことであり、ある人にとっては誰かを誘って焼肉に行くことだろう。

今日の労働がおわり、カフェに行きたい気持ちで、ちょうどカフェがあったので、少し迷った挙句に通りすぎて、少し歩いたところで、だめじゃない? とおもって引き返してそのカフェに行った。新しいものを避ける癖がついてるし、惰性に任せる癖がついてる。

夕飯は魚を焼いた。冷凍庫に干物がはいっていると良い。魚がどんどん好きになっていく。