労働

労働の話をしよう。わたしは学生のころ、働くことが怖かった。わたしはのらりくらりと人より長めに学生をしていたので、先に働きはじめた友人をみては、どうして働いていけるのだろうかと疑問におもった。実際に働いているひとにどうして働いていけるのかと聞いてみたこともあったが、まあ慣れだよみたいな曖昧な答えしか返ってこなかった。まあそういうものかとわたしも働きはじめ、いまのところの結果としては、わたしは慣れることができなかった。

労働は非人間的で、暴力的である。これは学生時代に抱いていた ”社会人になること” にたいする曖昧な不安に対して、いまのわたしが与える輪郭だ。社会は公には暴力の行使を禁止しているが、実際には部分的に許されている。それは家庭における父子関係であったり、学校であったり、部活であったり、肉体的であれ精神的であれ事実上暴力が許され、そしてそれを迎合しなければいけない空間というのがある。迎合というのはつまり、体育会的態度とか、社会人的態度をとることによってなされる。暴力的コミュニティにおいて、その構成員は暴力に耐えて暴力を肯定することによって将来的に暴力を振るう権利を得る。それは謙遜という行為に似ている。謙遜は自分の立場を低くする行為だが、それは階級の存在を認め強化し、将来的に自分が登るであろう階段を強固なものにする。

なぜ暴力が横行するかというと、つまり暴力を振るわれることを許容するかというとなにかしら人質をとられているからだ。義務教育は生徒にとって唯一絶対の世界のようなものなので暴力が横行するし、教授は単位を、留年とか卒業とかそういう権限をもっている。

労働というのはその人質と暴力の極限のもののように私は感じる。人質は生活であり、暴力は1日8時間以上の拘束だ。労働に取り憑かれた人は軽々と暴力を振るう。それが暴力的行為であろうとなかろうと、生活を握られているという事実は、行為から人間性を剥ぎ取る。労働は非人間的であり、労働にまつわるものもまた非人間的だ。わたしは労働を通して人間的な関係をつくるということが未だによくわからない。

わたしは労働について考えようとおもったが、それは難しかった。食っていくためには労働をしなければいけないし、労働が終わったあとの余暇の時間に労働について考えるのはあまり良いものではない。わたしは生活を労働による侵食から守りたかったし、それはつまり労働について考えることができないということだった。

労働というものは捉えようがない。実際にわたしを飲み込み、わたしの生活を握っているもので、それについて冷静に考えるというのはとても難しい。

ビジネス書や自己啓発書などを読み漁ったりもしたが、それは資本主義的な成功が案に設定されており、労働から実存を守るための思想ではなく資本主義的価値観により侵されるためのものであった。より深い洗脳による幸福論だ。

幸か不幸かわたしは今、労働と距離をおける立場にある(柔らかい表現)。幾らかの期間をぼんやりと過ごしたのでちょっと労働について考えてみようかという気持ちになっている。具体的には労働に関する本の感想を少しづつ書いていこうと思っている。