論理を鍛えろ

論理トレーニングという本を一日二章くらいずつやっている。

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

まだ半分くらいしかやってないけど、これは要するに国語の勉強だ。 大学受験のとき、わたしはなぜか異常に国語のテストができたのだが、そうじゃない人もたくさんいた。そういう人はどうやって国語の勉強をしたらいいのかわからんくて困っていたし、かといって私はなんとなくやればできるという感じなので何も教えられずもどかしかった。 今ならばこの本をやれと言うだろう。

文章というのは紙に書かれているものなので平面なのだが、実際にそれには構造というか構成というか、この文はこの文の根拠になってるとかそういうものがある。そういう、ある塊の文章を立体的につかむには形式と意味との両方から読み解いていかないといけない。これはある程度なんとなくできる人もいれば、すごく苦手なひともいて、論理トレーニングはそういう技術を反復で身につけようという感じだ。

国語、とくに現国という教科はなんとなく感覚でやれる人と表面的なテクニックで凌ぐひとに二分されている気がする。この本のアマゾンレビューを見ても国語の時間に教えてほしかったという声が散見される。まあそうは言うけど授業時間は有限だからなあ。 なので現国で困っている人がいたら勧めてあげてほしい。まあ、この本をこなすのがまず大変かもしらんけど。

この本でよく出る練習問題として、課題文を論理の構造図に書き下すというのがあるのだけど、ひょっとして文章という形式は論理構造を表現するには適してないんじゃないかという気がしてくる。いや実際に適してないのだろう、文章というのはリニアなので、論理関係や修飾関係が視覚的に明示されない。図のほうが便利だしわかりやすい。なぜ文章という形式にこだわるのだろうと不思議に思った。

たぶんだけど、文章というのは圧縮の形式なんじゃないだろうか。確かに図で書けば、構成や関係がひと目でわかる。しかし複雑なものや大きなものを書き表わそうとすると図がどんどん拡張していく。そうなると図の規模にあわせた大きな紙とかが必要になってくる。 これを文章というリニアな形式に書き下せば、面積の問題が長さの問題に変換される。長さを解決するのは簡単だ、ページ数を増やせばいい。というわけなんじゃないだろうか。

文章を書くということは面的なものを直線に圧縮するということだし、読むということはまた面なり立体なりに展開するということだ。実際のところ私達はそれをなんとなくこなしているわけだが、なんとなくで終わらせないのがたぶん論理学というやつで、というかなんとなくでやっているとある程度以上複雑な圧縮に対応できなくなってくる。

というわけで論理をトレーニングしている。