他者の語りを聞く事とそこから得られるもの(などない)

しくじり先生というテレビ番組がやっていて、作業がてらに流していたのだが、実に不快だった。

物語というもの、とくに人間が自分の経験を筋道立てて語るという行為に不快感というか、疑いというか、ネガティブなものを感じる。語ることは楽しいし、コミュニケーションであるし、いわばゲームなので、例えば酒をのみながら適当に交互に語るというのは私も楽しむが、シラフで滔々と語られるのはつらくなるものがある。

事実は捏造できないし、検証可能だが、事実を恣意的に配置することはできるし、語りはいくらでも騙れる(うまい)。事実を並べてその間と裏側を語り、今の自分の接続するという行為は自己満足でしかない。そのようなものを聞いても、いままさにつらい私には何の役にも立たない。わたしにできることといえば語り手が気持ちよく語り終わることをサポートするくらいだ。

そのような語りから無理にでも何かを得ようとするならば、いずれ私も語ることが可能であるという欺瞞だけだろう。わたしも今のつらさをどうにか乗り越え、生き延び、そして一角の人物になれば、あのように語ることができる。そのときわたしの今までのつらさはすべて昇華し、わたし自身の根拠となるだろう。そのような救いの可能性を、欺瞞の救いをみることができる。

実際のところそれが求められているものなのだろう、わたし達はいずれ気持ちよく語れるというよくわからないご褒美を待っている。そこに到達できたものは存分に語り、そのために経験を溜め込む。そこに到達できないことを、あるいはそのときに何も語れないことを恐れる。 そんな日曜日の深夜でした。