iPhone をベッドに持ち込まないこと

スマホタブレットの類をベッドに持ち込まないことは最も有益な習慣の一つだ。とにかく iPhone があるとツイッターを見たり調べ物をしたり、睡眠が悪くなる一方だ。この習慣を得るために多少の投資をする価値は十分にある。具体的には kindle 、読書灯、目覚まし時計、メモ帳などを買った。眠くなるまでは本を読むのがよい、すぐに眠くなるし、積ん読も消化できる。kindle は e-ink なのでベッドのなかで読んでも目が冴えない。寝室専用に一台買ってもいいとおもう。わたしは古い kindle paperwhite を寝る時専用にして枕元にずっと置いている。バッテリーの持ちがいいのもメリットだ。漫画はページ送りが遅くてつらいけど読めないことはない。電子書籍ばかりよむわけでもないので読書灯も導入した。これは 100 円ショップで USB につながる LED ライトを買ってきて、モバイルバッテリーにつなげてつかっている。100 円ショップというのは便利で、とりあえず思いついたら正規品というかちゃんとしたものを買う前に代替になるものを 100 円でさがして試すことができる。読書灯も 100 円のやつがゴミだったらもっとマシなやつを買おうとおもっていたが今のところこれで十分という感じだ。目覚まし時計なしでやっていけるような社会であってほしいけどそういうわけにもいかないので 1000 円くらいでアマゾンで買った。アラームが一つしか設定できなかったりスマホよりもかなり不便だが仕方ない。メモ帳は一応設置してあるけどほとんどつかっていない。なにか思いついたり調べたいことがあったら書こうかとおもっているけどなんせ暗いのでめんどくさい。

生活をコントロールできなくなるとき

生活をコントロールできなくなってくると精神が悪くなってくる。仕事が忙しくて帰って寝るだけで休みの日も寝てばかりだとか、あるいは仕事をしてなくても体調が良くなくてほとんど一日中寝てばっかだとか、そういう日々は絶望的な気分になってくる。

ところでわたしは最近ゲーム・オブ・スローンズにはまってしまい、これがだいたい70時間分くらいあるんだけど、こういうのも生活のコントロール感を失わせる。朝起きて観て、飯食って観て、風呂入って観て、寝る、みたいな日々を過ごした。欲求は満たせているのだけれどとにかく生活を自分でコントロールできないという感じで、でもやめられなくて、とにかくこれから開放されるためにはすべて観終わるしかないというかんじで、ゲーム・オブ・スローンズはとても良い作品なのだけど生活はなぜかつらかった。

なにかにどっぷり浸かった生活を楽しめるならばいいんだけどわたしはあんまりそういうタイプではないらしい。コミックレンタルなどで漫画を数十冊借りてくるときも、読み終わるまで生活がだめになってしまい、精神もだめになってしまう。

わたしは暇なときは意味もなくカフェにいくことが多いのだけど、そういうのも怠惰に取り憑かれてしまうと怠惰であること以上に精神がだめになってしまうから、それならぼーっとどこかでコーヒーを飲んでいるほうがまだコントロール感があってマシだからだとおもう。このあいだそういう話をしたら、カフェ代がもったいなく思ってしまうと言われ、それはそうかもしれないけどこれもまた生存のための必要経費なんだよなあとおもった。

自慢すること

他人の自慢話というものは、みんなあんまり好きではないとおもう。好きではないけれど、人間関係のパワーバランスとか、お互い様だよねとかで、仕方なく聞いているという事が多いとおもう。そういった自慢話における嫌さのようなものは置いておくとして、自慢話をするということはなんとももったいないことだなあという感じがする。

自慢するほどでもないことを自慢していると言いたいわけではない。何事かに打ち込むこと、生存すること、行為すること、勇気を出すこと、それが他者からみてどんなに些細なことでも自慢に値すると私は思う。すべての人間は、朝起きられただけでまず褒められるべきだ。褒めてほしい。

例えばある仕事を数十年続けているおっさんがいるとして、それはほんとうにすごいなとおもう。まずその歳まで生存していることがすごい、よく自殺しなかったなとおもう。そしてひとつのしごとを数十年やっているのでそりゃもう技術がすごい、ちょっとやそっとでは太刀打ちできない、一本指でしかタイピングできないとかは完全に瑣末事だ。わたしはそのひとを尊敬する、すげえなって。そのひとは自慢する、おれはすげえだろって。それは事実だし、それによっておっさんの凄さは減らないんだけど、そのときにわたしはもったいないなって心の中で思ってしまう。すげえだろって言う時、すごいですねって言われることを求めているわけで、それは自然な欲求なんだけど、そんだけすごいことを、すごいですねって言われるために使ってしまうのかという、なんというかそういうもったいなさのようなものを感じる。

芥川龍之介の「文章」という短編がある。主人公の堀川保吉は教師をやりながら小説を書いて投稿などしている。その文才を買われてか、よく翻訳や作文などの雑事を押し付けられる。ある日彼は本田大佐というひとの弔事を頼まれる。保吉は本田大佐のことを知らないが、履歴書と人から聞いた話で30分ほどで弔事を書き上げる。 葬式で弔事が読み上げられると、親族は鼻をすすり上げ泣き始める。その光景はみて堀川はおもう。

保吉はこう云う光景の前にまず何よりも驚きを感じた。それからまんまと看客を泣かせた悲劇の作者の満足を感じた。しかし最後に感じたものはそれらの感情よりも遥かに大きい、何とも云われぬ気の毒さである。尊い人間の心の奥へ知らず識らず泥足を踏み入れた、あやまるにもあやまれない気の毒さである。

語るということは暴力性がある。それは一人の人間をある形に要約してしまう。言葉を尽くして誠実に語るということもできるが、多くの場合は時間と技術の制約によって、あるパターンに押し込めるということになる。自慢話の気持ち悪さはそれが一般生をもってるということなのかもしれないとおもう。自慢とはある程度パターン化されている。なぜならば自慢しうることは社会的に、すくなくともその共同体において容認されていなければならないからだ。世界一周をして世界中で大麻を吸ってきたというエピソードはヒッピーの間でしか自慢話にならないけれど、ヒッピーの間ではありきたりな自慢話だろう。あまりに特殊なことは自慢しえない。そしてその一般性は人生の一回性を愚弄している。

イヨネスコは優れた批評とは一般に退かないものだといった。もし優れた自慢が、その生を誠実になぞるならば、それは良いものとなるのかもしれないが、それはもはや自慢話の域を超えているだろう。

労働

労働の話をしよう。わたしは学生のころ、働くことが怖かった。わたしはのらりくらりと人より長めに学生をしていたので、先に働きはじめた友人をみては、どうして働いていけるのだろうかと疑問におもった。実際に働いているひとにどうして働いていけるのかと聞いてみたこともあったが、まあ慣れだよみたいな曖昧な答えしか返ってこなかった。まあそういうものかとわたしも働きはじめ、いまのところの結果としては、わたしは慣れることができなかった。

労働は非人間的で、暴力的である。これは学生時代に抱いていた ”社会人になること” にたいする曖昧な不安に対して、いまのわたしが与える輪郭だ。社会は公には暴力の行使を禁止しているが、実際には部分的に許されている。それは家庭における父子関係であったり、学校であったり、部活であったり、肉体的であれ精神的であれ事実上暴力が許され、そしてそれを迎合しなければいけない空間というのがある。迎合というのはつまり、体育会的態度とか、社会人的態度をとることによってなされる。暴力的コミュニティにおいて、その構成員は暴力に耐えて暴力を肯定することによって将来的に暴力を振るう権利を得る。それは謙遜という行為に似ている。謙遜は自分の立場を低くする行為だが、それは階級の存在を認め強化し、将来的に自分が登るであろう階段を強固なものにする。

なぜ暴力が横行するかというと、つまり暴力を振るわれることを許容するかというとなにかしら人質をとられているからだ。義務教育は生徒にとって唯一絶対の世界のようなものなので暴力が横行するし、教授は単位を、留年とか卒業とかそういう権限をもっている。

労働というのはその人質と暴力の極限のもののように私は感じる。人質は生活であり、暴力は1日8時間以上の拘束だ。労働に取り憑かれた人は軽々と暴力を振るう。それが暴力的行為であろうとなかろうと、生活を握られているという事実は、行為から人間性を剥ぎ取る。労働は非人間的であり、労働にまつわるものもまた非人間的だ。わたしは労働を通して人間的な関係をつくるということが未だによくわからない。

わたしは労働について考えようとおもったが、それは難しかった。食っていくためには労働をしなければいけないし、労働が終わったあとの余暇の時間に労働について考えるのはあまり良いものではない。わたしは生活を労働による侵食から守りたかったし、それはつまり労働について考えることができないということだった。

労働というものは捉えようがない。実際にわたしを飲み込み、わたしの生活を握っているもので、それについて冷静に考えるというのはとても難しい。

ビジネス書や自己啓発書などを読み漁ったりもしたが、それは資本主義的な成功が案に設定されており、労働から実存を守るための思想ではなく資本主義的価値観により侵されるためのものであった。より深い洗脳による幸福論だ。

幸か不幸かわたしは今、労働と距離をおける立場にある(柔らかい表現)。幾らかの期間をぼんやりと過ごしたのでちょっと労働について考えてみようかという気持ちになっている。具体的には労働に関する本の感想を少しづつ書いていこうと思っている。

生存コスト

昨日は図書館にいった。まず家にて借りている本をリュックにつめて、図書館カードがちゃんとあるかを確認してから出かけた。
図書館につくとまず本を返し、借りたい本を探して、さらにリクエストカードを書いた。すると図書館カードを持っていないことに気づいた。ポケットの中にもリュックの中にもにない。家で確認したあとにそのままテーブルに置いてきてしまったのだ。

笑い話のようだがこういうことがよくある。大人の ADHD というのがここ数年で広く知られるようになったが、多分わたしもそういう傾向があるのだろう。そういえばこの前は電車に登山靴を忘れた。あんなでかいものをどうやって忘れるのだと思うが、忘れるときは忘れてしまう。なるべく気をつけてはいるが、全てを防ぐことはできないし、もうこれは生存のための必要コストだと割り切っている。鍵やメガネがなくて出かけられないだとか、ネックウォーマーを2つも3つも持っているだとかは、もうわたしが生きていくための必要コストで、支払わねばならないものだと思うことにしている。登山靴はけっこう高いものだし、そのすぐ後に山にいく予定があったのですごく落ち込んだけどまあ仕方ないよなともおもった。その後見つかったので飯田橋まで取りに行ったけど、そういう時間とか交通費とかも生存コストだ。ありがとう JR、ありがとう警察。

「自分の小さな「箱」から脱出する方法」感想

いわゆる自己啓発本? というやつで、こういうのを読んでいるというのはちょっと恥ずかしいので、ネットで評判がよかったとか、図書館にたまたまあったとかつらつら言い訳を書こうかとおもったけどそれはそれで微妙だなとおもった。

管理職の主人公が上司とミーティングをして、自己を啓発していくという感じの物語仕立てになっていて、なんでこう物語にするのが好きなのだろう、かったるくて仕方がない、かったるいので結局読み切っていない。読んでいない本について語ることは良くないという意見がありますが、わたしもそう思います。

めんどくさい物語をすっとばしてぱらぱらとページをめくるとこの本が言わんとしていることがわかりやすくまとまっている図があったのでさらにざっくりと要約すると

自分が他人のためにすべきだと感じたことに背く行動をする → その行動を正当化するような自己欺瞞をする → 自己欺瞞のもとに世界をみるようになる(この状態を箱に入っていると呼ぶ)

ということらしい。なるほどー、あるあるー、すっぱいぶどうみたいなやつだ。そんでその箱から出る方法はどんなんなのだろうとまた最後のほうまでページをめくってみる。箱の外に出る方法は「相手を一人の人間として尊重すること」とのことだ。もう少し詳しくいうならば、「箱の外の人間関係(会社の同僚とか)」への接し方を「箱の中の人間関係(奥さんとか)」に適用してみようということらしい。なるほどー、親しき仲にも礼儀ありという感じだ、わたしも言われたことあるよ。内容についてはそんな感じでした。人間を尊重しましょう。

ところでなぜこの本は、エリート管理職とその上司のミーティングという物語を採用しているのだろうか。この箱から脱出する方法は、あたかも上司の経験則から導き出されたかのように語られる。上司自身が自分の若いころの失敗談を話し、わたしはこうして失敗を乗り越えた、君もそうするといいという感じだ。なぜ専門家によるカウンセリングではないのだろうか。ここにターゲットとする読者層への配慮のようなものが感じられる。

この本のターゲットは「社会不安障害に悩む無職」ではなくて、「バリバリ働く管理職」なのだろう。ある程度成功している人間がさらに成功する為の方法だ。本の冒頭に監修者による前書きがあるのだが、ベンツを乗り回しているお金持ちにも悩みはあるみたいな薄っぺらいエピソードが書かれており、一体なんなんだこいつはという気持ちになったが、それに共感できるような人に向けて書かれているのだ。

そんなわけでカウンセリングを受けるとか治療を受けるというのは彼らの自尊心を傷つけてしまうので、上司とのミーティングという形をとっているのだろう。

箱に入ってしまう行動の発端が「自分が他人のためにすべきだと感じたことに背く行動をする」というのも気になるところで、自分の直感的な道徳感覚についての反省はここには見られない。むしろ、直感的な道徳感覚に背いたからこそ自己欺瞞に囚われてしまっている、本来の自分の在り方からずれた状態にある、という現実への解釈なのではないか。ここに自分の直感への信仰が見られるとわたしは思う。自分の現在を自己欺瞞的であると自認しながらも直感の正しさは揺らいでいない。

だから逆に言えば、直感に従い、他者を尊重すれば真の認識に立ち戻ることができ、仕事はうまくいき、チームはガンガン成果を出し、会社の業績もアップして、あっという間に昇進できる。これもまた自尊心への配慮である。彼らは本質的にはなにも間違っていない。彼らは本質的に正しく、一時的な欺瞞にいるのであって、本質へと戻ることができれば、その本質の正しさにより成功が約束されていると言っている。

いまわたしは難癖をつけている、さきほど「言っている」と断言したが、最初に書いたようにわたしはちゃんと本を読んでない。つまりようするに気に入らないのだ。偶然運が良かったから成功できた人間が、肥大した自己肯定感と直感を振り回すこと、それを反省している振りをしながらも、結局のところ直感への信仰を強化していること、そういうことが気に入らない。あとこれは自己啓発本によくあることなんだが、成功というのが資本主義的なものに設定されていることもわたしは嫌いだ、労働者を対象にしているにも関わらず。

ということで、「自分の小さな「箱」から脱出する方」おすすめです。

Apple Watch がへたってきた

初代 Apple Watch を持っている。たしか 2016 年に買ったので、だいたい2年くらい使ってるのだが、最近バッテリーがへたってきた気がする。

そもそもバッテリーは 1.5 日くらいしか持たない。それでも夜寝るときに充電して、朝起きたら着けるというルーチンが出来ているので、特に不便はなかった。しかし最近は朝 5 時くらいから活動していると 22 時くらいで残り10パーですと言われてしまう。夜ジョギングをしていたら途中でバッテリー切れをしたこともあり、若干の不便さを感じる。

普通の時計なら修理や電池交換をすれば何年も何十年も使える。タンスの奥から出てきた時計を修理してもらってまた使うなどもできる。わたしは爺さんの形見の懐中時計というエモいアイテムを持っているが、これも電池を交換したら普通に動いている。そんで、まあ当たり前なんだが Apple Watch はこういうことができないんだなあという悲しい気持ちになった。

Apple Watch だけではなく、スマホもパソコンも、とにかくガジェットというのはどうしようもなく消耗品なのだ。