Apple Watch がへたってきた

初代 Apple Watch を持っている。たしか 2016 年に買ったので、だいたい2年くらい使ってるのだが、最近バッテリーがへたってきた気がする。

そもそもバッテリーは 1.5 日くらいしか持たない。それでも夜寝るときに充電して、朝起きたら着けるというルーチンが出来ているので、特に不便はなかった。しかし最近は朝 5 時くらいから活動していると 22 時くらいで残り10パーですと言われてしまう。夜ジョギングをしていたら途中でバッテリー切れをしたこともあり、若干の不便さを感じる。

普通の時計なら修理や電池交換をすれば何年も何十年も使える。タンスの奥から出てきた時計を修理してもらってまた使うなどもできる。わたしは爺さんの形見の懐中時計というエモいアイテムを持っているが、これも電池を交換したら普通に動いている。そんで、まあ当たり前なんだが Apple Watch はこういうことができないんだなあという悲しい気持ちになった。

Apple Watch だけではなく、スマホもパソコンも、とにかくガジェットというのはどうしようもなく消耗品なのだ。

遅すぎるということはない

月並みな言葉だが、遅すぎるということはない。このことをよく理解したいし、何歳になっても身軽に新しいことを始められる人間になりたい。

現実をみることはつらく悲しいことだ。現実というのは体重計とか預金残高として現象する。現実をみて、それに対してなにか行動を起こすことも大変なことだ。とても元気があるときしかできない。

現実を見ないで、なにもかも手遅れだとおもうことが楽で、しかしそれはだんだんと精神を悪くしていく。

なにか新しいことを始めたとき、なぜ今までそれをしてこなかったのか、もっと早く始めていればもっと良い現在となっていたのになあという謎の罪の意識ようなものが発生する。賢者は昨日から始めているらしい。卑屈な諺だ。私の明日が賢者の昨日なのだくらいの心持ちでやっていきたい。

遅すぎるということはない、という考えはすべての時点の行為を肯定する。テスト前日や、直前の五分休みに勉強を始めたとしても、おそすぎるということはない。強めの肯定をもっていきたい。

他人を否定することによって心の安定を得る技術があり、容易に習得可能であり、そういうひとによって植えつけられた意味もなく否定的な道徳はさっさと捨てたほうがよい。

遅すぎるということはない。

日記

日曜日に登山に行き、足が筋肉痛で動けないだの雪だのやってたら親戚イベントがあったりして気づいたら木曜日だった。いや、気づいていたけど。特になにもしないまま日々が過ぎていくのをちゃんと気づいていたけど。 というわけで今日はゴミ出しをして細々としたタスクをこなした。以前からすこし気になってた本をカーリルで検索したら近くの図書館にあったので借りるなどした、この本はあんまり面白くなかったけどあとでブログに書こう。ブログ、なんかブログ書こうと思ったけどあんまりうまくいかなくて、結局思いつくままに日記を打っている。タスク管理はいろいろ試した結果 trello が良くて、なにが良いかというとうわー!ってなったときにボードごと削除してなかったことにできるところが良い。タスク管理はしっかりやってるわけではないけどなんとなく思いついたときとか状況が混沌としてきたときにボチボチと打ち込み、整理している。 そしてまた明日がやってくる。緩やかな退屈と緩やかな忙しさに、つまり生活に殺される。

Twitter 投稿専用クライアント Faster Than Think

twitter に投稿するだけのアプリをつくりました。

そしてこれは欲しいものリストです。

おすすめ設定

  1. アイコンをタップすると設定画面が出ます
  2. “POST WITH” → “Return” を ON にします
  3. 改行入力で POST するようになります。

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経緯

ツイッター公式アプリの投稿画面ってだるいじゃないですか。具体的にはツイートしたあとに投稿画面が閉じてしまうのがだるい、あといちいちボタンをタップするのがだるい。タイムラインをだら見したいときと他人には興味がなくてとにかく連投したいときがあって後者のときためのアプリです。

ツイッターというものが流行りだした時、やっていることは本質的にはブログと変わらないのに140字という制限がついただけでこんなにも体験が変わるのかーとか、テキストしか投稿できないのでいろいろ工夫したりとか楽しかった気がするけどいつのまにかゴテゴテした広告とクソリプにまみれたものになってしまっている気がする。わたしとしてはみんなが脳みその中身を垂れ流すみたいのが好きで、深夜に突然エモくなったり、極稀にしかつぶやかない人が意味深なことをつぶやいたりするのが好きで、そういう、そういう世界観を、リッチなのはもういい。そういう愚痴です。

ブログは誰にも向けて書いていない

ひさしぶりにブログでも書こうかと思い、つらつらと労働に関するこじらせをついさっきまで綴っていたのだが止まってしまった。うすうす気づいていたのだが、わたしはブログというものを誰にも向けて書いていない、いわば長い独り言だ。これは誰かにむけて文章を書くときに痛感する。去年文フリで出した本も、ある程度書きたいこととや到達したいところや伝えたいことがあったのでブログよりもぐいぐい書けていたとおもう。それにくらべてブログというのはどこにも向いていないという感じがある。あるいはどこかに向けるのがこわいのかもしれない。まあそれがいいとか悪いとかいう話ではなく。

社会

芥川龍之介だかの有名なセリフで、世間とはお前だみたいなのながあるけど、では社会とはなんなのか。社会がつく言葉というのはどうにも胡散臭い。ふと思ったがソーシャルゲームという呼称はまだ使われているのだろうか。あれらのゲームを総称してなんと呼ぶのだろう。ギャンブル…?

最近は社会復帰のためにリハビリしなきゃなあと思って活動しているが、その復帰すべき社会とはなんなのだろう。社会人という言葉も違和感があり、では学生は社会の構成員ではないのかとか。これらのどうしようもない胡散臭さというのは社会という曖昧な言葉によってある特定の範囲を指示し、社会であるものと社会でないものを恣意的に分けているところだろうと思う。社会人という言葉を使うひとは社会を労働者によって構成されるものだと見なしている、いやだから社会人でないひとはなんなんだっていう話で、非社会人とか反社会人とでも名乗ればいいのか。

非常に広い意味を持つ言葉を、特定の対象の指示のみに使うことは、差別的な世界観を含んでいる。

iOS アプリの勉強をしている

最近 iOS アプリの作り方を勉強している。 iOS も swift も更新が早いのでネットの情報はどんどん劣化するのでいったいなにを当てにすればいいのかわからない。それでも適当にやっていると xcode がおせっかいを焼いてくれるのでなんとかなる。

web はひとつのサービスを構成する技術要素が膨大で、つまりサーバーからブラウザまでいろんなものが組み合わさってプロダクトができているのでとにかく大変だと言う感じだった。比べて iOS アプリは swift と xcode さえあればとりあえず動く。入出力のハード的要素も気にしなくていい。だからなのかさくさくと勉強が進んで楽しい。しかも Apple にお金を払わなくても実機動作ができる。

ところで、私はそこそこにいろいろなことを勉強しているがそれぞれがとくになんにも身にならなくて暗澹たる気持ちに定期的になる。