やる気のやる気

やる気を出す方法というのはある。ともかく些細なことから着手して、手を動かしているとだんだん惰性がついてくるのでそれに従ってやる気を高めていくというふうなやつだ。これが効果的であることはわかっている。わたしの場合はとりあえずメモ帳とかに手書きでもなんでも今日あったこととか書き始めるというのがルーチンみたいになっている。なので真の問題はやる気を出す方法ではなくて、やる気をだす気がないということなのだ。やる気を出したくないのだ。いまこのままダラダラし続けたい、なにも生産的なことはしたくない、ゲームをやりたい、いやゲームは良くない、なんとなく罪悪感が強い、ネットを見たりツイッターを見たりしながら延々と時間を浪費したい、そういう気持ち、やる気を出す気がないというのが問題なのだ。

客と神様と貴族

「お客様は神様です」的思想を客側が持ちすぎてトラブルになるという話を良く聞く。店員を土下座させたりとかそういうやつ。わたしもこの間スーパーで店員さんと道を塞ぎ合う形になってしまったとき、とっさに店員さんが一歩退いてお辞儀をして、おおっすごいっしかしそんなにしてくれなくてもいいのに、とおもった。

個人商店や、コンビニなどでもおばさんだとグイグイ踏み込んでくる接客をしてきて、ちょっと戸惑ったりもするが、黙ってお辞儀をされるよりはいいなとおもう。

そこでふと、「お客様は神様です」問題というのは貴族階級がいないというのも関係しているのではないかと思った。いわゆる神様扱いというのは貴族やブルジョアに対するそれでなのではないだろうか、いや実際には知らんけど。

もしブルジョアに対して反感を持っているなら彼らの振る舞いを真似するだろうか。いやしないだろう。

というか、というかそもそも、貴族ならばどこにいってもそれなりに扱われるが、私達はみな労働者なのだから、かわりばんこに神様ごっこをしているわけで、阿呆らしいなとおもう。

左右独立イヤホンを買った

EARIN の発売がたしか1年前だったかとおもう。完全ワイヤレスイヤホンということでかなり話題になったし、わたしも欲しいと思ったが2万近くしたので、やめた。

というところまで書いて、不安になって調べたら2年前だった。ここ1年間くらい記憶が飛んでる可能性がある。たしかに EARIN が出た直後くらいにヘッドホンを買いに行って、しかも寒かった気がするのだが、このあいだの冬はそんな余裕全くなかった。

その後、類似製品が各社からでて、アップルも例のうどんイヤホンなど出し、それでもどれも2万弱くらいからなので、まあイヤホンにそんなに出せないよなーと思いつつスルーした。

久しぶりにアレ系の製品どうなってんのかなーと思ってAmazonで検索してみると、なんか3000円くらいからの名も知らぬメーカーの完全ワイヤレスイヤホンがバンバン出てる。すごい。たしかに品質に差はあるのだろうけど、2年足らずでコピーされてしまうのか。と思いながらも買った。

おそらくこの価格帯のものはどれも安かろう悪かろうだし、どれを買ったかとかは注文履歴を手繰るのもめんどくさいので書かない。

使ってみた感想としては、音楽を聴くのは厳しいが便利という感じ。全体的に音がスカスカなので音楽は本当に厳しい。音質にこだわらない人の最低要求レベルが、iPhone付属のイヤホンだと思うんだけど、そこに達していないのでどうしようもない。

が、便利。radikoポッドキャストを聴く分には問題ないし、音質を犠牲にしつつジョギングやジムで使うのはめちゃ便利。とくにジョギングするときに紐が揺れて伝わってくるノイズがないというのがいい。

ケースがバッテリーになってるので、トータルでの使用可能時間は一般的なワイヤレスイヤホンより長いと思う。これも意外と便利で、わたしは玄関にケースごとおいて、散歩のときつけて帰ってきたらケースにしまうという感じでやってる。ケースの充電は週に一回以下。

3000円なら十分なのではないかと思う。

というところまで書いて風呂を上がったのでせっかくなのでリンクを貼っておこう。

音響機器というやつはコストを音質に振るか機能に降るかというやつなので、結局機能のいいものは音質がわるいし、両方取ろうとすると価格がすごいことになってしまう。

ことば

言葉を発したりなにかしらを書くのがとてもだるいとふと思った。言葉や文章はよくよく選んで磨かないといろいろとうまくいかない。何かが確定していく感じが怖い。なにもかも未確定の状態で保留しておきたい。

保留といえば日本語入力で確定操作がだるいというのもある。以前 SKK を使っていた頃、あれはひらがなだけで入力していくならば、変換モードに入らず即確定で書けるので、変換する気力知らない時にひらがなで何かを書いたりしていた。

いろいろな道具があり、なるべく統一的にこだわりを持って効率よく使っていきたい気持ちはあるが、ともかく進捗が出ることが正義である。個人で好きで何かをやる場合、そもそもそんなことはやらなくてもいいという圧倒的前提があり、きつい。進捗が出ていれば励みになる。

適度にふざけた素晴らしい人間味あふれる文章というものがあり、そういうものに触れるとクラクラする。そのしなやかさに嫉妬する。自分のやってることは全く意味ないんじゃないかとかそういう気分になる。

自分の行為の無意味さに絶望する時、ではそれ以前に私を支えていた意味とはなんだったのだろうと思う。特に意識はしていなかったがなんらかの意味に支えられていた。

久しぶりにiPadにキーボードをつなげて使ってみたらショートカットなど充実していてよかった。以前は文字入力以外は画面を触らなくてはいけなくて、その行ったり来たりがすごくめんどくさかった。

近況

1日の作業記録時間が2時間とかで、宇宙的自己嫌悪に襲われてSAN値を減らしている。冷蔵庫に野菜のかけらのようなものが溜まってきたので鍋をやり続けて消費している。鍋だと炭水化物を食わなくても満足感があり、炭水化物を食わないと身体が軽い。

意趣返しと復讐と報復について

これは漠然と思うことなのだけれど、「相手の論に乗っかって上手いこと意趣返しをする」というのは良くないんじゃないかとおもう。

例えば、「教育上体罰もまた必要である」と明言する A という人がいるとする。B は「どのような状況でも体罰は許されない」という信念を持っており、A の思想は間違っていると感じている。そこで B が「なるほど、では教育上必要であると判断するので、おれはおまえを殴る」と A に言う、あるいはそのように考えて溜飲を下げるなどする。これ、これな、この B の行為というか考え方はあんまりよくないんじゃないかなーって思う。つまり気に食わない思想や論理に対して、それを採用するとあなた自身に危害が及ぶけどちゃんと考えてんの ? と指摘する、もしくは脅すようなやり方だ。

B は「どうだ言ってやったぞ、ぐうの音もでないだろう」と内心ほくそ笑むだろう。しかし A が「全くその通りだ、さあ殴れ」と言ってきたらどうするだろうか。あるいはある特定の民族を迫害する権力者が、彼自身がその民族の出自であると判明したとき、一瞬の躊躇いもなく自らの思想とこれまでの行為に基づいて死を選んだ時、一体なにが起こるのだろう。

上手い意趣返しを行うその前提には、こいつは結局自分の利益や快楽を追求しているだけで、理屈は隠れ蓑にすぎない、隠れ蓑ゆえに自分に害が及ぶとなれば手のひらを返すだろうというあなどりが存在している。ゆえに矛盾、その理屈を採用するとあんたにとって結局都合がわるいことが起こるよということを指摘する。しかしその期待を裏切って、暴君が彼の思想を全うしたとき、暴君は死ぬが思想は生きる。

おかしな話になってきた。そもそも一体なにと闘っていたのだろうか。ここで「B」を「わたしたち」にすり替えるという典型的詭弁を行おう。一体わたしたちはなにと闘っているのだろうか。

わたしたちはある思想に闘いを挑んでいる。それはわたしたちの自由や尊厳を毀損しようとする思想だ。そのような思想を社会が採用し、それに従って意思決定が行われることが最悪の未来だ。わたしは今、特定のイデオロギーについて語っているのではない、わたしが闘うべき相手は個人ではなく思想であり、目の前の個人をぎゃふんと言わせることはあんまり意味がないということだ。

最もよい復讐の方法は、自分まで同じような行為をしないことだ。

ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの言である。

Todo をあれする

古今東西 Todo を管理することは良いことだと言われ続けていますが、まあ難しいですね。 管理コスト、平たくいうとマメさが足りないということもありますが、私の感覚としてその最大の障害はずらっと並んだ Todo を見たくないということだと思います。 まあそんなわけで Todo 管理のための様々なツールがありますが、結局わたしはその日の朝に今日やることを書き出してポケットにいれておくという感じでやっています。

無職の日常というのは継ぎ目ない曖昧さで満たされていて、ぼんやりと過ぎていくので、せめて今日やることを書き出さないと何もできない。本当に何もできない。 いくらかの Todo を紙片に書いて、これだけやったら寝ようと思うが、全て消えるまえに寝る時間になってしまう。昼夜逆転は恐ろしいので寝る時間はある程度決めている。 それでもこの紙片は今日のうちに捨ててしまうのでそれほど嫌な気持ちにはならない。

思うに自己嫌悪というのは人生に全く必要ないのではないか。自分の怠惰さを責めるというのはみなさん日課だろうし、夜は自己嫌悪で忙しいのだろうけどたぶんそれはなんのあれにもならない。けつを叩けば走る理論みたいなもので自己嫌悪している気がする。よくよく考えると私にとってなんの得にもならないのに習慣になってしまっているものは、かつて私を操作したり支配しようとした者が植え付けたものだとおもう。そういうものから開放されて自由になりたいなど。

そういった自由は端的にいって「したたかさ」のようなものだ。しかしなかなかしたたかにはなれない。

ともかくこうして今日の Todo をひとつ潰したので、まだ幾つか残っているけど、もう寝よう。