近況

1日の作業記録時間が2時間とかで、宇宙的自己嫌悪に襲われてSAN値を減らしている。冷蔵庫に野菜のかけらのようなものが溜まってきたので鍋をやり続けて消費している。鍋だと炭水化物を食わなくても満足感があり、炭水化物を食わないと身体が軽い。

意趣返しと復讐と報復について

これは漠然と思うことなのだけれど、「相手の論に乗っかって上手いこと意趣返しをする」というのは良くないんじゃないかとおもう。

例えば、「教育上体罰もまた必要である」と明言する A という人がいるとする。B は「どのような状況でも体罰は許されない」という信念を持っており、A の思想は間違っていると感じている。そこで B が「なるほど、では教育上必要であると判断するので、おれはおまえを殴る」と A に言う、あるいはそのように考えて溜飲を下げるなどする。これ、これな、この B の行為というか考え方はあんまりよくないんじゃないかなーって思う。つまり気に食わない思想や論理に対して、それを採用するとあなた自身に危害が及ぶけどちゃんと考えてんの ? と指摘する、もしくは脅すようなやり方だ。

B は「どうだ言ってやったぞ、ぐうの音もでないだろう」と内心ほくそ笑むだろう。しかし A が「全くその通りだ、さあ殴れ」と言ってきたらどうするだろうか。あるいはある特定の民族を迫害する権力者が、彼自身がその民族の出自であると判明したとき、一瞬の躊躇いもなく自らの思想とこれまでの行為に基づいて死を選んだ時、一体なにが起こるのだろう。

上手い意趣返しを行うその前提には、こいつは結局自分の利益や快楽を追求しているだけで、理屈は隠れ蓑にすぎない、隠れ蓑ゆえに自分に害が及ぶとなれば手のひらを返すだろうというあなどりが存在している。ゆえに矛盾、その理屈を採用するとあんたにとって結局都合がわるいことが起こるよということを指摘する。しかしその期待を裏切って、暴君が彼の思想を全うしたとき、暴君は死ぬが思想は生きる。

おかしな話になってきた。そもそも一体なにと闘っていたのだろうか。ここで「B」を「わたしたち」にすり替えるという典型的詭弁を行おう。一体わたしたちはなにと闘っているのだろうか。

わたしたちはある思想に闘いを挑んでいる。それはわたしたちの自由や尊厳を毀損しようとする思想だ。そのような思想を社会が採用し、それに従って意思決定が行われることが最悪の未来だ。わたしは今、特定のイデオロギーについて語っているのではない、わたしが闘うべき相手は個人ではなく思想であり、目の前の個人をぎゃふんと言わせることはあんまり意味がないということだ。

最もよい復讐の方法は、自分まで同じような行為をしないことだ。

ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの言である。

Todo をあれする

古今東西 Todo を管理することは良いことだと言われ続けていますが、まあ難しいですね。 管理コスト、平たくいうとマメさが足りないということもありますが、私の感覚としてその最大の障害はずらっと並んだ Todo を見たくないということだと思います。 まあそんなわけで Todo 管理のための様々なツールがありますが、結局わたしはその日の朝に今日やることを書き出してポケットにいれておくという感じでやっています。

無職の日常というのは継ぎ目ない曖昧さで満たされていて、ぼんやりと過ぎていくので、せめて今日やることを書き出さないと何もできない。本当に何もできない。 いくらかの Todo を紙片に書いて、これだけやったら寝ようと思うが、全て消えるまえに寝る時間になってしまう。昼夜逆転は恐ろしいので寝る時間はある程度決めている。 それでもこの紙片は今日のうちに捨ててしまうのでそれほど嫌な気持ちにはならない。

思うに自己嫌悪というのは人生に全く必要ないのではないか。自分の怠惰さを責めるというのはみなさん日課だろうし、夜は自己嫌悪で忙しいのだろうけどたぶんそれはなんのあれにもならない。けつを叩けば走る理論みたいなもので自己嫌悪している気がする。よくよく考えると私にとってなんの得にもならないのに習慣になってしまっているものは、かつて私を操作したり支配しようとした者が植え付けたものだとおもう。そういうものから開放されて自由になりたいなど。

そういった自由は端的にいって「したたかさ」のようなものだ。しかしなかなかしたたかにはなれない。

ともかくこうして今日の Todo をひとつ潰したので、まだ幾つか残っているけど、もう寝よう。

圧倒的量について

今日は調べ物をしに図書館にいった。端末にワードを入力し、ずらっと並んだ本のリストから良さそうなものを選ぶ。本棚を見ながら、ものすごい量の本があるなと気づいた、しかもすべて無料だ。図書館なのだからそれは当たり前なのだけど、その膨大な量はわたしを不安にさせた。

自分に関する量を漠然と思い浮かべてみる。読書量、一日の作業量、仕事量、書いた文章の量、コードの量、勉強の量、経験の量。図書館の本の量に比べるとどれも僅かだった。しかもそれは時間が有限であるがゆえというよりも、わたしの怠惰の結果だった。時間をもっとなんらかの量に変換していれば、わたしも今頃はなんらかの分野において人に誇れるような量をもっていたのかもしれない。

例えば太宰治について調べようとおもい、人間失格だけ読んで満足してしまうのは恥ずべき愚かさだとおもう。そういう類の怠惰さが、わたしの量となっている気がした。

質は幻想で、量だけが事実なのかもしれない。

真面目に生きよう

真面目に生きようと突然おもった。

思ったからといって今までのことが帳消しになるわけでも明日から急にしゃっきりするわけでもない。決意や感情でなにもかもが変わってくれればいいのになあとおもう。まるっと忘れてキラッと生きたい。

しかしまあそんなことはないわけで、ぐだぐだと良かったりダメだったりな日々を過ごすしかない。そのなかで小さな変化や実績を積んでいく。わたしにしかわからないし、自慢できるようなことではないが積んでいく。自己肯定を。

台風と胃もたれと寝不足

例によって低気圧が苦手です。つまり台風なのでだるい。雨のあとのすごくいい天気とかもだるかったりするので、低気圧そのものというよりは気圧の変化に弱いのかもしれない。

あと昨晩ふと vita でディスガイア4を初めたら徹夜してしまって寝不足である。

あと昼に中華料理屋で油淋鶏と炒飯を食べすぎて胃がもたれている。”胃がもたれる” という表現はよくよく見ると独特で、つまりどういうことなのか字面から伝わってこないな。私が感じる胃もたれは要するに胃が動いてなくて内容物がそのまま残っているという感じだ。胃が動いていない感覚というのは私も16歳くらいのころはわからなかった。悲しみがある。

胃が動いてないといろいろと不調が発生し、全体的にだるくなり風邪っぽくもあるが風邪ではなくて、胃が動き出すと途端に良くなる。胃を動かすには温めるのがよくて、熱いお茶を飲んだり熱い風呂に入ったりするのがいいです。あとなんか生薬とか、処方されたけど残ってたマグミット錠とかがあるので飲んでる。

睡眠不足、低気圧からの油淋鶏炒飯コンボはやばい、せめて炒飯がなければ。しかし行きつけの店の炒飯は安くて美味い。そういえば先日テレビをみていたらバーミヤンの特集やってて、まず炒飯をつくりますって、なぜかすでに出来てる炒飯をフライパンにあけて卵と炒めていた。そういう仕組みか。昔バーミヤンいったとき、米がないから代わりに炒飯でいいかと言われた経験とも合致する。

こきたない中華料理屋は一定確率で異常に安くて多くて美味い店があるのでやめられない。はやく胃が動いてほしい。

記述は最小の社会である

なんらかの考え事をするとき、頭のなかだけで考えているとどうにもうまくいかない。考えがまとまらず、どうでもいいことに気を取られ、そもそも何について考えていたのかもわからくなり、気づくと眠っている。しかし紙とペンをとって、なんとなく、思いつくまま、汚かろうと読めなかろうと書きながら考えるとすんなりと考えられたりする。

頭の中での考え事は漠然としている。それは事実と印象と感情と論理がごちゃまぜになっているような感じだ。それは言語的であったり、非言語的であったりもする。同じ推敲経路を何度も何度も通り、偏った思考がどんどん強化されてしまったりもよくある。

しばらくそのようなとりとめのない思考をしたあとに、紙に書いてみると、社会性のようなものが発生する感じがある。あった。客観性といってもいいかもしれない、秩序というと言い過ぎな気がする。

書くことのメリットは多分たくさんあって、ひとつは思考の経路を認識できることだろう。これは上記のような堂々巡りを防げる。また、数秒前の自分の思考を読めるということは対話的であるし、対話は社会だ。

もうひとつ、言語化できないものは書くことができないというのもメリットだろう。”なんとなく嫌な感じ” というのを言葉にするには、その原因や、比喩的表現を見つけなければいけない。そして記述してみると案外たいしたことなかったりする。しかし頭のなかで考えていると、そのネガティブな印象に引きずられてトンデモナイ方向に思考がすすんだりするし、最悪死ぬ。曖昧な印象や感情を少なくとも記述において排除できるのは強いと思う。

記述には、それが自分にしか読まれないものであっても社会性がある。言語的で、非感情的で、論理的で、対話的で、もっと言えば非人間的な冷たくて硬い社会性がある。すくなくとも私の頭の中よりはある。エモーショナルで詩的な表現を駆使すれば、記述のなかにも陶酔的で温かみのある世界が広がるのかもしれないが、それはそれで才能と修練が必要だろう。少なくともわたしは稚拙な言葉を積むことしかできない。

感情と陶酔は良くも悪くも気持ちいいが、それはわたしを混乱させ、何もかもなんだかよくわからなくなってしまう。そういうときは記述によって社会性を注入しよう、ここに最小の社会をつくろう。

ところで書くことが言語化不可能なものを排除することならば、非言語的なままでやっていきたいときは記述してはいけないということがわかる。例えば感情であり、強い感情で怒ったりとか、そういうのが該当するだろう。