コストパフォーマンスについて

コストパフォーマンスとか最初に言いだしたのは誰なんだ。まるで万能の物差しのようになっているが、実際のところコストパフォーマンスで測れるのは経済活動とかそういう限定されたものだけで、たとえば人生とかについて考え始めると破綻する。

それでもやはりあらゆる物事のコストとパフォーマンスを皮算用している自分がいる。

何事かを始めるということは少なからずそこに全てを可能にする力を夢見ていると思う。仕事や趣味やお金や恋人や、わたしがこれから為すこと手に入れることが、漠然とわたしを一切から救ってくれるような感じを、やはり漠然と感じながら、信じながら何事かを始める気がする。

それについて時間や労力を注ぎ込みながら、ほんとうにこれはわたしを救ってくれるのだろうかと逐一不安になっている。それは狂ったような信仰だが、なんらかのそろばんでコストとパフォーマンスが釣り合わなくなった時に辞めたりダメになったりする。

わたしはわたしの行為を喜捨のように行いたいと思う。人生からなんの見返りも求めなければいいのにとおもうが、実際のところ難しい。

喜捨というのは良いかもしれなくて、実際に喜捨してみればよくて、たとえば寄付とか、贈り物とか。

電子書籍による新しい本との出会い

先日友人に、どうやって読む本を探しているのかと問われた。私は少し考えて、kindleセールで、と答えた。身も蓋もない答えだ。

しかしやはり、本にセールというものが導入されたのは革命であるとおもう。

steam の話をしよう。わたしは steam で200本を超えるゲームを所有している。もちろんほとんどは一度も起動していないし、これからもするつもりはない。なんでこんなことになったのかというと、steam そのものがゲームを買うゲームだからだ。

まず steam にはセールがある。ダウンロード販売には中古がないのでその代わりというかなんというか、頻繁にセールが開かれる。その値引き幅はすごくて、50%OFF なんてザラ、90%OFF もちょくちょくある。また steam store 以外にも steam のゲームを売るサイトがいくつもあり、それらもセールをする。となると、1円でも安く買うぞというゲームになってくる。

さらに pay what you want とう販売方式があり、つまりこちらの言い値で買える。humble bundle が一番有名だろう。これがゲームに厚みをもたらす。値引率すごいけどそろそろ bundle 入りしそうだから買うのやめとくか、とか、買ったら翌日 bundle で売り出されてギャーってなるとか、よくある。

突発イベントとしては値付けミスというのがある。100$ で売るはずだったものを 10$ で売ってしまったり、そうするとSNSなどで一気に情報が広まり、アクセスが殺到し、修正されるまでに注文ができるかという祭りになる。自分はそのゲームをすでに持ってるから腹いせに拡散してやろうという人も現れる。

そうやってやりもしないクソゲーでインベントリがぶくぶくと太っていくのを見るのが楽しい。これがゲームを買うゲームだ。 いやいや、やりもしないクソゲーというのは言い過ぎで、例えば眠れない夜に何気なく起動すると気づいたら朝になっているということがよくある。そういう偶然の出会いもまた楽しい。

その是非はおいといて、値付けの自由というものが購買行動にゲーム性を付加する。

本の話にもどろう。本も電子書籍によってセールというものが導入された。これはセールという新しい出会いの場であって、普段なら読まないけどこの値段なら買ってみるかというのがよくある。 そういう本を暇な電車のなかや、眠れない夜にそっと開いてみると、案外おもしろかったり、新しい世界が開けたりする。 値付けの自由と本棚をすべて持ち歩けるという電子書籍による新しい出会いもなかなか良いと思う。

本について書きたかったのに文量としてはほとんど steam の話になってしまった。いやそれくらい steam のストア設計とエコシステムはすごいんだって、ほかのダウンロード販売プラットフォームが全然追いつけてない。

時間を記録する習慣

数年来、作業時間を記録したいと思っていたのだがやっと今年になって習慣として根付いてきた。このことはちょいちょい言っている気がするがそれくらい嬉しい。

記録する対象について

すべての時間をトラッキングするというのをやっていた頃もあったが無理なので2日くらいでやめた。重要なのは作業をした時間、集中した時間なので、それらを記録するようにした。

ツール

toggl を使っている。これを使う上で最も難しいのはタイマーを止めることだと思う。止め忘れて12時間とか経っているとうんざりした気分になる。次に難しいのはタイマーをかけること。ここらへんは慣れていくしかないし、忘れていたら適当に修正する。適当でいい。

タイマーをかけるというアクションは集中のきっかけというかけじめというかルーチンのようになってくるのでそういう嬉しい副作用もある。

短いタイマー

toggl とは別にタイマーをかけていて、25分やって5分休むというサイクルでやっている。25分たったら、つまりタイマーが鳴ったらすぐに手を止める。5分休んでる間は時間記録を止めない。逆にいうと5分以上休む場合は止める。 この25分タイマーは主にツイッター防止である。あと不意の調べ物防止とか。

作業がだんだん調べ物になり、なんだかよくわからないことになり、別のことを初めてしまい、いつまで作業でいつから遊びなのかわからなくなってしまうということも防げる。

私の場合、だいたい1時間くらい集中すると途端に切れて疲れてしまうのでその前に休憩を強制的に挟めるというのもいい。

toggl と短いタイマーを両方スタートさせなきゃというのはちょっとめんどくさいけど、現状この方法が集中力をいい感じにしつつ時間を記録するのにうまいこといっている。

一日のノルマ

例えば一日2時間勉強しようとかは意外とうまくいかない。この参考書を一日一章ずつやろうとかそういう量で切るほうがうまくいく。というのは時間で切るというのは怠けていれば時間は経つし、あと中途半端なところで終わってしまうのも精神的によくない。

つまり短期的には25分で作業を切って、1日のノルマとしてはここまでやるという量で切る。

プロジェクトの単位

プロジェクトと作業名で管理している。toggl はプロジェクトごとにクライアントを設定できるのでプライベートなものはクライアントを自分にして、仕事は仕事みたいな感じでやっている。

読書の時間はどうするんだというのがあるけど現状は「読書」というプロジェクトをつくって作業名を書名にして記録してる。記録漏れはかなりあるけど気にしないことにした。

まとめ

やはり適当にやっていくのが良い。かっちりやろうとしすぎると続かない。あと適当であることを気にしないというか、神経質にならないようにする。

記録を見て自己嫌悪をしないことも重要であると思う。これしかやってないのかーといちいちがっかりしたり自己批判していると、記録するという行為そのものが嫌になってくる。重要なのは習慣づけるということなのでその点に関しては自分を甘やかしていく。

ちょうど一年前の今日の日記

にっきを書きます。 まあいろいろあって、いろいろあってというのは雑な言い回しだ。

鏡が見たくない現象とわたしは便宜上呼んでいるのだけど、そういうのがあって、つらい。 行為に小さな抵抗成分が存在し、それに打ち勝つことができない。語弊がある、まあ、流れてしまう。流れと量の法則に従ってしまう。

つまり抵抗の小さいほうにいくということだ。

それでもやりたいことがあり、少しづつやっている。だましだましやっている。良いです。

自己を啓発すると期待してしまってむしろ無理感がある。

思い返せばわたしは世界が怖くて仕方がなかった。 未知に向かってどうやって踏み出せないいいかわからなかった。安心や保証がほしかった。あと許可。

しかし結局のところ、どれだけ経験を積んでも未知はなくならず、不安はありつづける。ある地点に到達すれば完成して不安がなくなるのでは、このひとは不安なく生きているのではそういったこと感じるけれど、結局だれもが不安に生きている。いやそうは言い切れないんだけどさ。

でもわたしが不安でなくなることはないとおもう。なので結局、持ってるものを全部使うっていう雑な感じであれしていくしかない。

とにかく未知なので、自分はさもできるように振る舞うというのは有効なのではないかとおもう。それは傲慢な嘘をつくというのではなく、自分を甘やかさないというか。

自分は初心者なんですっていうのに感じる言い訳くささ、それの対極としての、自分はできると振る舞うことそういうかんじ

論理を鍛えろ

論理トレーニングという本を一日二章くらいずつやっている。

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

まだ半分くらいしかやってないけど、これは要するに国語の勉強だ。 大学受験のとき、わたしはなぜか異常に国語のテストができたのだが、そうじゃない人もたくさんいた。そういう人はどうやって国語の勉強をしたらいいのかわからんくて困っていたし、かといって私はなんとなくやればできるという感じなので何も教えられずもどかしかった。 今ならばこの本をやれと言うだろう。

文章というのは紙に書かれているものなので平面なのだが、実際にそれには構造というか構成というか、この文はこの文の根拠になってるとかそういうものがある。そういう、ある塊の文章を立体的につかむには形式と意味との両方から読み解いていかないといけない。これはある程度なんとなくできる人もいれば、すごく苦手なひともいて、論理トレーニングはそういう技術を反復で身につけようという感じだ。

国語、とくに現国という教科はなんとなく感覚でやれる人と表面的なテクニックで凌ぐひとに二分されている気がする。この本のアマゾンレビューを見ても国語の時間に教えてほしかったという声が散見される。まあそうは言うけど授業時間は有限だからなあ。 なので現国で困っている人がいたら勧めてあげてほしい。まあ、この本をこなすのがまず大変かもしらんけど。

この本でよく出る練習問題として、課題文を論理の構造図に書き下すというのがあるのだけど、ひょっとして文章という形式は論理構造を表現するには適してないんじゃないかという気がしてくる。いや実際に適してないのだろう、文章というのはリニアなので、論理関係や修飾関係が視覚的に明示されない。図のほうが便利だしわかりやすい。なぜ文章という形式にこだわるのだろうと不思議に思った。

たぶんだけど、文章というのは圧縮の形式なんじゃないだろうか。確かに図で書けば、構成や関係がひと目でわかる。しかし複雑なものや大きなものを書き表わそうとすると図がどんどん拡張していく。そうなると図の規模にあわせた大きな紙とかが必要になってくる。 これを文章というリニアな形式に書き下せば、面積の問題が長さの問題に変換される。長さを解決するのは簡単だ、ページ数を増やせばいい。というわけなんじゃないだろうか。

文章を書くということは面的なものを直線に圧縮するということだし、読むということはまた面なり立体なりに展開するということだ。実際のところ私達はそれをなんとなくこなしているわけだが、なんとなくで終わらせないのがたぶん論理学というやつで、というかなんとなくでやっているとある程度以上複雑な圧縮に対応できなくなってくる。

というわけで論理をトレーニングしている。

今日食べたもの

熱湯に20秒ほど通し、氷水につけると皮がずるっと剥けるというのでやってみたらうまくできた。 最初にてっぺんに十時に切り込みをつけておくのがよい。 こうやって剥くとまるかじりできる。桃は料理にもいろいろ使えるらしいが、どうにも高級品という感じがしてもったいなくてそのまま食べてしまう。

枝豆

近くの八百屋で房で280円で売っていた。ハサミで一つ一つ外して茹でた。 食べ始めると止まらなくなってしまうが食べきれないほどあったので止まった。

すいか

2ヶ月ぶりくらいにジョギングしたらシャワーを浴びても汗が止まらなくなってしまい、ふと冷蔵庫にスイカが残っていることを思い出す。 大きな塊にかぶりついて行儀悪く食べるのが好きだ。

図鑑のように見つめること(「なぜ植物図鑑か」感想)

本が読める程度にだるかったので今日は本を読んだり寝たりしていた。 昼下がりくらいに郵便屋さんがきて、アマゾンで注文していた本をコトンと投函していったのが良かった。

中平卓馬という写真家の映像論集を読んだ。

なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集 (ちくま学芸文庫)

なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集 (ちくま学芸文庫)

中平卓馬はもともと「アレ・ブレ・ボケ」の作品をつくっていた。ピントがボケてブレブレで何が写ってるかわからないような写真を撮っていた。彼はある投書にて「あなたの写真から詩が失われている」というふうな批評をうける。表題作の「なぜ植物図鑑か」はその投書へ返答である。

けっこう難しいことを言っているのだが、ざっくりと要約してみよう。

芸術家が確たるイメージを持ち、それを技術によって作品として外化する時代は終わった。芸術家が世界の中心である、あるいは世界は私であるといった近代の観念は崩壊し始めていると彼は言う。そして彼は新たな表現の出発を以下の様に宣言する。

世界は決定的にあるがままの世界であること、彼岸は決定的に彼岸であること、その分水嶺を今度という今度は絶対的に仕切っていくこと、それが我々の芸術的試みになるだろう。それはある意味では、世界に対して人間の敗北を認めることである。だが此岸と彼岸の混淆というまやかしがすでに歴史によって暴かれた以上、その敗北を絶望的に認めるところからわれわれが出発する以外ないことは、みずから明らかなことである。

人間が特権的ではないということを認め、世界のあるがままを描くような芸術では詩を排除しなければいけないということらしい。

そのようにして歩み出す新しい芸術、新しい仕事を彼は「植物図鑑」と名付けた。図鑑は収録されているものを特権的に扱いはせず、ただ並べる。ゆえに図鑑は詩や曖昧さを受け付けない。というような理屈らしい。

実際に彼の写真が年代を減るにつれてどう変わっていくのかとかはよく知らないので近々図書館で写真集を探してみようと思う。

本には表題作のほかにも映像や芸術に関するテキストがたくさん収録されていて、読み応えがあって楽しかった。パリのビエンナーレに参加したけど展示していた作品が邪魔だからどけろと言われ、挙げ句の果てに作品を破かれ、ブチ切れて帰ってきた話とか、ゴダールまじ最高ってずっと言ってたり、芝居はほとんど見ないけど寺山修司は話すとすごい天才なのであいつはすごいって言っていたり、時代を生きた芸術家という感じがとても良い。

最後にわたしにとってショッキングなメッセージであった部分を引用して終わりにする。

要するに私はグラフィズムの中の一切の性が否定され、超克されねばならぬものと考える。何故なら性はあくまでも個人的で、直接的なものでなければならないはずだから。たとえ今、性が歪められ、ディストートされたものであるとしても、その現実から出発するしか方法はない。その現実を忘れさせ、衛生性と公共性という美名の下で性の解放をあたかも達成されたかのように提示するめくされグラフィック・セックスを粉砕せよ。性とはやることであってけっして見ることではない。網点の中の百万のグラマラスな女体より、一人の扁平でがに股の他ならぬこの女をやってやってやりまくれ。