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日本茶がうまい

私事ですが先日祖母が亡くなりました。

ところでお葬式のお土産みたいなやつの中に日本茶が入っていて、最近はそれを飲んでいるのですが日本茶がうまい。 なぜ日本茶はコーヒーにその地位を奪われてしまったのだろうか。

あとこの間の雪の日にあまりに寒くて電気毛布を買ったのですが、コレもいい感じで、最近は電気毛布をかぶってお茶をのみながらオーバーウォッチをやっています。

ちなみにもらった日本茶はもうおわってしまって、あといつだかにもらった謎の紅茶があるのでしばらくはこれを飲んでいこうとおもいます。

プログラミング言語C++ を読んだ

読んだ。

9504円、1360ページの大著だった。 kindle 版で読んだので物理的なプレッシャーは感じなかったけれど、右下の%表示が全然進まなくてびっくりしました。

C++ は全然書いたことなくて、C のテストを C++ で書くくらいしかやったことなかったので、ちょっとちゃんと勉強してみようと読んでみた。1万円の本が買えるの本当に労働の力という感じがする。

物理的に重い本でも、kindle だと簡単に持ち運べてとても良い。あとパソコンで読めるので仕事に飽きたときにこっそり読める。とりあえず画面にコードが表示されてればいいっしょ。

本の感想としては、「C++は俺がつくった」という自信に満ちていてすごかった。

やる気に関する覚書

難しいですね、やる気。やる気に関するつらつらです。

やる気は必要か

やる気はどうしてもムラがあるので、それで作業の効率や生産性が左右されてしまうのはちょっとあれなので、 やる気にかかわらずやれるようにしていこうという話はよく聞きます。

なるほどそりゃあいいねって思うけど、やる気はないより適度にあったほうがいいし、もう一歩踏み込むか? みたいなところはやはりやる気かなとおもいます。 やる気がゼロでも動けるレベルのいわゆる底上げと、やる気そのもののマネジメントみたいな両面で対策を打っていくのがいいのだろうと思います。

だめなとき

前提として、なにもやらなくてもいい、という価値観をおいておきます。 どうしてもやる気が出なくて、動けなくて、なにもできなくてもいいよ。 だめでもいいよという価値観を自分のなかで明示しておくのは結構重要なんじゃないかとおもいます。

ある程度の行動

なにもやらなくてもいいんだけど、なにもやらないで生活するのは精神衛生上あまりよくないという経験則があります。 適度になにかやったほうがいいです。

ここまでやる気一般について書いてきましたが、ここからは仕事、労働のことに話題を絞ります。 なぜかというと、ここ数年でわたしは労働におけるやる気の維持のようなものが難しいなあと感じているからです。 私生活においてやる気がないときは寝ればいいけど、職場では寝れない。 労働なので、最低限こなせればいいんだけど、かといってやる気の発生しない倦怠の気持ちで、しかし仕事は真面目にやってますみたいな風体で職場に居続けるのはきついです。

意味のないことはつらい

やる気のでない仕事の振られ方というのがあって、作業だけ振ってくるのが一番つらいです。 意味のない作業はつらい、意味が奪われていくとどんどんつらくなります。

話をすると少し楽になる

というのは、私が一日中だれとも話さなかったりするからです。 話さなくていいというのはすごく楽なのですが、それが続くとなんのためにやってるんだっけという気分になってきます。

労働がそもそも社会との関わりあいで発生するものなので、人と交流しないと労働の意味が削れていくように感じます。 これは対策が簡単で、職場の人と話をする、とよいです。話をすると、あっわたしはこの人のために仕事してるんだったというような再発見があって、急に楽になったりします。

人間には変なプライドがあり、他者によって簡単に自分が影響をうけるとそれを隠したり認めなかったりしますが、実際わたしは楽になるので、人と話すことはすごいなあと思います。

成果を送りつける

必須ではないけどやっておいたほうがいい仕事、というのは意味が削られやすいように思います。それはまだ求められてない仕事だったり、前例がないものをつくっていたりするからです。大げさな話をしているわけではなくて、ちょっと詳細なドキュメントをつくっておこうとか、立ち話でうっかり重要なことが決まったのでまとめておこうとか、そういうことです。

そういう仕事にとりかかっているとき、あれ? これ? 必要かな? 余計なのでは? 意味ないのでは? という不安が、仕事の意味を削りにきます。するとやる気がなくなったりします。 そういうときは、とにかく小さくても成果を関係するひとに送りつけたりすると、途端に意味が発生して楽になったりします。

意味を大事に

要するに、意味を大事にするといいなと思います。 「ほうれんそう」という謎の言葉がありますが、上司から部下へのそれはわりとおざなりになっている場合が多く、意味が欠落することがあり、やる気がどんどん下がっていきます。 あと説明が下手とかでうまくいかなかったりもします。

意味を大事にして健やかなやる気を。

ひとつのものを使い続けること

情報は一冊のノートにまとめなさいみたいな本が数年前に流行った気がします。私は読んでないけれど。

一元化すること、規格化すること、統一すること、ただひとつのものを使い続けることというのは、合理的に聞こえるし、美しさも感じられます。 しかし現実には道具には得手不得手があり、一長一短で、なかなかまるっと一つにまとめることは難しいです。あと最大の問題として飽きる、というのがあります。 わたしはとても飽きっぽいのですぐに別のものに移ってしまいます。

いまわたしは道具全般についての話をしようかと思いましたが、なんだか焦点がぼやけるのでメモ帳の話をします。

一番長くつかってるメモ帳はたぶんコクヨ測量野帳で、これは30冊くらいつかったし今でも使っています。野帳は会社の経費で買えるのでコストゼロだし、買うときは10冊セットで買うのでストックしておけるのもよいです。 野帳もずっと使い続けているというわけではなく、そのときの気分でいろいろ浮気しつつ結局これに落ち着いてるという感じです。

学生のころは無印のツインリング無地ノートをつかっていて、これもすごく気に入ってました。当時は教科書を持ち歩いたりしていたので、B5のノートでも問題なくもてたというのが大きかったです。無印はわりと廃番になったりするのでもうないかもしれません。

ミドリのMDノートも良かった。ちょっと高いけど。製本がよくて、パタンと開けるところがよかった。あと紙質が自慢らしくて実際良いでした。

ミドリ MDノート<文庫> 方眼罫

ミドリ MDノート<文庫> 方眼罫

MDノートがよかったので同じ紙でつくられているトラベラーズノートという手帳も良いかもとおもったけど、こちらはパタンと開けなくて使いにくかった。

ところでわたしは罫線というものが嫌いで、無地か方眼のノートを使います。昭和天皇も罫線きらいだったらしいです。

道具は別にこだわる必要はなくて、飽きる罪悪感とかも感じる必要はなくて、その時々で気分でいろいろ使うというのが良い感じです。 いろいろ使っていると、そのなかで良いものが生き残っていって、その良いもののなかから現状にフィットしたものが手元にのこるという結果になります。

ブログ、何を書けばいいのかわからない

今日CTECに行ってきたのでそのことを書こうかとおもったけど手が止まる。何を書けばいいのかわからない。CTECはいろいろと衝撃的で、なぜか技術者になってしまったわたしはわくわくしたり不安になったりした。結論としては明日もクソみたいなコードを書くしかないっていう感じだった。

そういうところから就活の話とか開発の仕事をやりたかったけど諦めたけどいろいろあってなぜか開発の仕事ができるようになった話とか書こうとおもったけど、自分のことばっかり書くのもなあとか、ともかく手が止まった。

個人のブログなのだから好きに書いていいのだし、何を書くべきなのかという問いを発することがそもそもおかしいのではとか、そういうことも考える。

でもやっぱり自由というのはとても難しいのもので、それは実は模倣から始まる気がする。

文章力のようなもの、高校生くらいからまったく変わってない、とても苦手。

cppUTest のインストール

cppUTestのインストールが案外てこずった。ググるとけっこう情報があるんだけどそれらの通りにやるとうまくいかなくて、結局配布元に書いてある通りにやったらできた。

環境:Mac OS 10.9.4

home brew でインストール

brew install cpputest 

これでうまくいけばいいんだけどなんかエラー出てうまくいかなかった。

ソースコードからビルド

インストールできなかったのでソースコードからビルドする。 まず github から適当なフォルダに clone、パスに空白が入らないように。

git clone git://github.com/cpputest/cpputest.git 

必要なものをインストール。

brew install automake  
brew install autoconf  
brew install libtool  

cpputest_build ディレクトリに移動してmake。

cd cpputest_build 
autoreconf .. -i 
../configure $ make

おわり。

スクリプトのインストール

cppUTest には便利なスクリプトがついていて、それらをつかえるようにする。 まず環境変数 CPPUTEST_HOME の設定をする。vim で.bash_profileを開いて、

vim ~/.bash_profile 

環境変数を追記する(cppUTestのディレクトリを指定)

export CPPUTEST_HOME=$HOME/tools/cpputest

vimを閉じて.bash_profileを読みこむとcppUTestのホームディレクトリが環境変数に追記される。

source ~/.bash_profile

スクリプトのインストールをするのでスクリプトに実行権限を与える。

cd $CPPUTEST_HOME/scripts
chmod -x *.sh

スクリプトをインストールする用のスクリプトが用意されているので実行。

./InstallScripts.sh

おわり。これで $ NewCModule hogehoge みたいなかんじで使えるようになる。

まとめ

だいたい公式サイトに書いてあるとおりにやったらできた。でも英語読むの嫌だから日本語情報を探してたらいろいろとはまった。最初から英語を読んでおけばよかった。

らくえんについて考える

南の島にバカンスにいっていきました。貧乏旅行ではなくて、金で楽園を買うみたいなかんじのやつ。

らくえんについて考える。

わりとぼくは毎日意味もなくつらいなーっておもいながら生活していて、じゃあそれの反対のもの、らくえんというものについて考えてみると、つまりぼくがつらいとかだるいとかめんどくさいとか感じるものがなにもない世界について考えてみる。無痛の世界だ。そういう世界に到達することはできるのだろうか、とか。今まではなんとなく、うなるほどの金があればそういう、らくえん、を手に入れることはできるのだろうなあと漠然とおもっていた。まずお金があれば働かなくていいし。

お盆休みがおわって、あ、働くのすごく嫌だっておもったけれど、一ヶ月もしたらバカンスだなともおもった。今回の旅行にはそういう、らくえん的な理想を抱いていた。南の島でだらだらしよーって。やはりここでも漠然と、無痛のらくえんを夢みていたのだろうとおもう。

そんでまあ行ってきたわけだけど、無痛のらくえんなんてなかった。夢のように綺麗な島だったけれど、船酔いはするし、食べ物にあたって半日寝込むし、珊瑚で足を怪我するし、無痛のらくえんではなかった。いやほんとにお腹壊したときは死ぬかとおもった。すごい勢いで尻から液状のものが、そして勢いがすごすぎて尻がひりひりして痛いの、出しても痛いし出さなくても痛い、そして出さなきゃ終わらない。地獄だ〜って叫びながらホテルのトイレに一晩中こもってた。

つまり無痛のらくえんは買えなかった。

ぼくはなにかつらいことがあると、つらい→しにたいっていう感じに考えてしまうんだけどなんですぐしにたいっておもうのか自分でも不思議だった。それはどういうことかというと、ぼくにとっての理想の状況が無痛のらくえんであって、それを阻害するありとあらゆる痛みが嫌で、でもその痛みって海外旅行に行くためには何時間も飛行機に乗らなきゃいけないみたいなものなのであって、でもそれすらもない無痛のらくえんを求めている。つらみを感じるとき、無痛のらくえんは遠のくし、それをより欲っする。でもまあ実際にそれを達成する方法はたぶん死ぬしかなくて、だからしにたいっておもうんじゃないかとおもう。

自分が理想とするところとそれに至る方法をよくよく知っている。のかもしれない。いいかげんしにたいとかうだうだ言ってる歳でもないし、そういうのも飽きてきた感じもある。