終わらせること

近況ですが、資格の試験を受けるなどした。そんなにがんばって勉強をしたというわけでもないけど終わるとそれはそれで達成感というか開放感があり、次はなにをしようかとか考えたりする。生活は絶え間なく続いているので何かが始まり何かが終わるということは大切なことなのかもしれない。「宇宙よりも遠い場所」でも南極の生活では行事と食事が重要と言っていた。

しかし実際のところ終わらせるというのは難しくて、多くの事柄が、つまり生活の大半が明確な終わりがなくふわふわとしている。生活のなかに始まりと終わりをきっちり作っていけるひとは強いのかもしれない。いただきますってちゃんというとか。

わたしは儀式的なことをあまり重視しないというか、むしろバカにしている節すらあるのだが、最近はそうでもないのかもしれないなあと思いつつある。

救済を求めながら本を読むことについて

本を読む時に、そこに救済やその可能性について求めながら読んでしまう。今日はピーター・シンガーの「私たちはどう生きるべきか」という本を読んでいた。シンガーは左派というものについて、世界の不平等を知ったときそれを仕方のないことだと思わないでどうにかしようと行動する人間こそが左派であると別の本で書いていた。この「私たちはどう生きるべきか」というのも、つまりそういう本で、つまりみんながみんなのことや地球のことや動物のことを考えて倫理的に生きてくれよなっていう啓蒙を目的としている。 倫理的に生きることに対置されているのが個人の利益至上主義であり、これの欠点が、つまり個人の利益のみに固執することのデメリットがいくつも挙げられている。そのなかで生きがいとか人生の意味のような話があり、ざっくり言うと人間という生き物は個人を超えた大きな偉大なものに貢献することによって人生に意味を見出すというようなことが書いてある。もちろんそれは盲目的な崇拝になってはいけないので、そういうのは民族浄化とかを引き起こすので、みんなが理性を働かせて宇宙的視点から物事を考えようと努めて倫理的に生きてくれよなっていう感じだ。

私はここを読んでいるときに、なんというか救済の可能性とか誘惑のようなものを感じた。

ネグリ=ハート もちょっと似たことを言っていて、いわゆるリベラルとか左派の人たちは伝統的社会に対抗するためにいきすぎた個人主義のようになってしまって、社会的なつながりのようなものが希薄になっていて、これは人生の意味とかをよくわからないものにしてしまうし、なによりも伝統によって強い結束を持った右派に立ち向かうことができないので、社会的つながりをとりもどしていこうぜ、マルチチュードという形で。みたいなことを書いていた。

少し前に流行ったアドラーも、人類全体という共同体意識のもとに、もっとも巨大な共同体に貢献できるように行動しようみたいなことを言っていた。

「現代カトリシズムの思想」という本も最近読んだ。それはカトリシズムと哲学の関係とか、カトリシズムが現代の問題にどう関わっていけるかなどをまとめた新書だ。仔細な内容はともかくとして、カトリシズムの根底にある進行や共通善というものは強固でうらやましく思えた。 救済の話に戻るが、わたしは救済を探して本を読んでいるのだなと思った。救済というのは一切合切まるっと救われることだ。だからこういう大きなものや確かなものが現れると、それにどうしようもなく誘惑されてしまう。キルケゴールが絶望を分類したときも、カミュが自殺すべきかを論じるときも、わたしはその果てに救済を期待する。この難解な論をじっくり追っていけば最後には確かなものにたどり着き、それを携えればこれから先も確かに生きていけるのだろうと愚かにも期待している。

しかしそれは間違いなのだろうと思う。そういう到達可能な救済の匂いを嗅ぎつけるような本の読み方は間違いなのだろうなと思う。なるほどそれは字面を追うと救済っぽいが蓋を開けてみるとそんなことはない。例えばシンガーは、倫理的な生き方について、間違うこともあるだろうけど何がみんなにとっての利益となるのかを常に考え続けなければならないと言う。カトリシズムの思想も、信じるものは救われるというようなものではなくて、信仰から出発して日々やっていきましょうという感じで、いますごい濁したけどつまり何が言いたいかというと、それらは到達の思想ではなくて前進の思想なんだ。そういう前進し続けるための思想を、私はどこかに到達してそこに落ち着こうとして読んでいて、つまりこれが救済を探して読んでいるということなのだけど、そのギャップがすごいなっておもった。このギャップがある限りわたしは本を読んでどこかに到達したような気持ちになって一時的に高揚するけど現実には何も変わってなくて苦しみ続けるみたいなことが続くのだろうとおもった。

すべてからまるっと一発で救われるようなものはたぶんない。死ぬことを除いて。死ぬことだけは到達の思想だ。日々やってくる不安や強迫やストレスやつらみや諸々のもの、それらを根こそぎに解決してくれるようなものはない、金はかなり有力だけど残念ながらそれすらも多分違う。例えば不安はその不安が予測していることを明確にして、それがどれほど馬鹿馬鹿しい予測なのかをひとつひとつ自分で検証していくというふうに、個別に対処していく。これは前進だ。どこにも到達できないことは前進しない言い訳にはならない残念だけど。生きることはつらい。そういうことを考えていたらうわーってなったのでブログを書いた。

不安とめんどくさささ

わたしがめんどくさいとかだるいと思っていたことの多くは実は不安なのではないかと思った。

例えばわたしはメールを確認したり、電話を受けたり、人に連絡をとったりするのが苦手で、それはつまり不安なのだ。人とやりとりするとき、もしかすると怒られるかもしれないとう不安がある。なんでそんなに怒られることが怖いかというとこれも難しい問題なのだが、R.D.レインの「引き裂かれた自己」という本で精神分裂病質について分析されているのだけど、レインによると、そういった人たちは自分の存在というものが確固たるものに感じられず、他者に自分の存在そのものを依存し、常に脅かされており、普通の人にとっては当たり前でなんの苦労もない行動が、彼らにとっては全存在を賭けて行うようなものになるというようなことが書かれいて、なるほどなあと思った。多分わたしもそんな感じだとおもう。こっちは命がけでメール開いてるんだよ。

不安がやってくるとどうなるかというと、頭の奥がずーんと重くなって、次に身体がずーんと重くなる。つまりだるい。わたしはかなりのめんどくさがりやなのだが、わたしがめんどくさいと思っていることの何割かは、めんどくさいのではなくて不安によってだるくなっているのではないか。

めんどくさいものを対処するときにタスクを分解して手をつけやすくするというのがあるけど、不安が原因でだるくなっている場合この方法はあまり役に立たない。どんなにタスクを分解しようとそれをこなそうとすることは不安に近づいていく行為なので、結局だるい。実際には不安というのはその正体を見極めるほどに小さくなっていくものなのですこしづつでも進められれば状況は改善していくが、不安に向かって進むというストレスはものすごくて、つらい。タスク分解は不安を減らさない、むしろタスク分解によってめんどくささが減ったはずだから出来るはずという強迫観念がむしろやばい。そういうこともある。根本的に対処法を間違っていた。

不安に対してできることは大きく二つあって、一つは安定剤を飲むということ。あと一つは不安の対象について客観的に分析するというやつで、これについてはまた後で書こうと思う。

iPhone をベッドに持ち込まないこと

スマホタブレットの類をベッドに持ち込まないことは最も有益な習慣の一つだ。とにかく iPhone があるとツイッターを見たり調べ物をしたり、睡眠が悪くなる一方だ。この習慣を得るために多少の投資をする価値は十分にある。具体的には kindle 、読書灯、目覚まし時計、メモ帳などを買った。眠くなるまでは本を読むのがよい、すぐに眠くなるし、積ん読も消化できる。kindle は e-ink なのでベッドのなかで読んでも目が冴えない。寝室専用に一台買ってもいいとおもう。わたしは古い kindle paperwhite を寝る時専用にして枕元にずっと置いている。バッテリーの持ちがいいのもメリットだ。漫画はページ送りが遅くてつらいけど読めないことはない。電子書籍ばかりよむわけでもないので読書灯も導入した。これは 100 円ショップで USB につながる LED ライトを買ってきて、モバイルバッテリーにつなげてつかっている。100 円ショップというのは便利で、とりあえず思いついたら正規品というかちゃんとしたものを買う前に代替になるものを 100 円でさがして試すことができる。読書灯も 100 円のやつがゴミだったらもっとマシなやつを買おうとおもっていたが今のところこれで十分という感じだ。目覚まし時計なしでやっていけるような社会であってほしいけどそういうわけにもいかないので 1000 円くらいでアマゾンで買った。アラームが一つしか設定できなかったりスマホよりもかなり不便だが仕方ない。メモ帳は一応設置してあるけどほとんどつかっていない。なにか思いついたり調べたいことがあったら書こうかとおもっているけどなんせ暗いのでめんどくさい。

生活をコントロールできなくなるとき

生活をコントロールできなくなってくると精神が悪くなってくる。仕事が忙しくて帰って寝るだけで休みの日も寝てばかりだとか、あるいは仕事をしてなくても体調が良くなくてほとんど一日中寝てばっかだとか、そういう日々は絶望的な気分になってくる。

ところでわたしは最近ゲーム・オブ・スローンズにはまってしまい、これがだいたい70時間分くらいあるんだけど、こういうのも生活のコントロール感を失わせる。朝起きて観て、飯食って観て、風呂入って観て、寝る、みたいな日々を過ごした。欲求は満たせているのだけれどとにかく生活を自分でコントロールできないという感じで、でもやめられなくて、とにかくこれから開放されるためにはすべて観終わるしかないというかんじで、ゲーム・オブ・スローンズはとても良い作品なのだけど生活はなぜかつらかった。

なにかにどっぷり浸かった生活を楽しめるならばいいんだけどわたしはあんまりそういうタイプではないらしい。コミックレンタルなどで漫画を数十冊借りてくるときも、読み終わるまで生活がだめになってしまい、精神もだめになってしまう。

わたしは暇なときは意味もなくカフェにいくことが多いのだけど、そういうのも怠惰に取り憑かれてしまうと怠惰であること以上に精神がだめになってしまうから、それならぼーっとどこかでコーヒーを飲んでいるほうがまだコントロール感があってマシだからだとおもう。このあいだそういう話をしたら、カフェ代がもったいなく思ってしまうと言われ、それはそうかもしれないけどこれもまた生存のための必要経費なんだよなあとおもった。

自慢すること

他人の自慢話というものは、みんなあんまり好きではないとおもう。好きではないけれど、人間関係のパワーバランスとか、お互い様だよねとかで、仕方なく聞いているという事が多いとおもう。そういった自慢話における嫌さのようなものは置いておくとして、自慢話をするということはなんとももったいないことだなあという感じがする。

自慢するほどでもないことを自慢していると言いたいわけではない。何事かに打ち込むこと、生存すること、行為すること、勇気を出すこと、それが他者からみてどんなに些細なことでも自慢に値すると私は思う。すべての人間は、朝起きられただけでまず褒められるべきだ。褒めてほしい。

例えばある仕事を数十年続けているおっさんがいるとして、それはほんとうにすごいなとおもう。まずその歳まで生存していることがすごい、よく自殺しなかったなとおもう。そしてひとつのしごとを数十年やっているのでそりゃもう技術がすごい、ちょっとやそっとでは太刀打ちできない、一本指でしかタイピングできないとかは完全に瑣末事だ。わたしはそのひとを尊敬する、すげえなって。そのひとは自慢する、おれはすげえだろって。それは事実だし、それによっておっさんの凄さは減らないんだけど、そのときにわたしはもったいないなって心の中で思ってしまう。すげえだろって言う時、すごいですねって言われることを求めているわけで、それは自然な欲求なんだけど、そんだけすごいことを、すごいですねって言われるために使ってしまうのかという、なんというかそういうもったいなさのようなものを感じる。

芥川龍之介の「文章」という短編がある。主人公の堀川保吉は教師をやりながら小説を書いて投稿などしている。その文才を買われてか、よく翻訳や作文などの雑事を押し付けられる。ある日彼は本田大佐というひとの弔事を頼まれる。保吉は本田大佐のことを知らないが、履歴書と人から聞いた話で30分ほどで弔事を書き上げる。 葬式で弔事が読み上げられると、親族は鼻をすすり上げ泣き始める。その光景はみて堀川はおもう。

保吉はこう云う光景の前にまず何よりも驚きを感じた。それからまんまと看客を泣かせた悲劇の作者の満足を感じた。しかし最後に感じたものはそれらの感情よりも遥かに大きい、何とも云われぬ気の毒さである。尊い人間の心の奥へ知らず識らず泥足を踏み入れた、あやまるにもあやまれない気の毒さである。

語るということは暴力性がある。それは一人の人間をある形に要約してしまう。言葉を尽くして誠実に語るということもできるが、多くの場合は時間と技術の制約によって、あるパターンに押し込めるということになる。自慢話の気持ち悪さはそれが一般生をもってるということなのかもしれないとおもう。自慢とはある程度パターン化されている。なぜならば自慢しうることは社会的に、すくなくともその共同体において容認されていなければならないからだ。世界一周をして世界中で大麻を吸ってきたというエピソードはヒッピーの間でしか自慢話にならないけれど、ヒッピーの間ではありきたりな自慢話だろう。あまりに特殊なことは自慢しえない。そしてその一般性は人生の一回性を愚弄している。

イヨネスコは優れた批評とは一般に退かないものだといった。もし優れた自慢が、その生を誠実になぞるならば、それは良いものとなるのかもしれないが、それはもはや自慢話の域を超えているだろう。

労働

労働の話をしよう。わたしは学生のころ、働くことが怖かった。わたしはのらりくらりと人より長めに学生をしていたので、先に働きはじめた友人をみては、どうして働いていけるのだろうかと疑問におもった。実際に働いているひとにどうして働いていけるのかと聞いてみたこともあったが、まあ慣れだよみたいな曖昧な答えしか返ってこなかった。まあそういうものかとわたしも働きはじめ、いまのところの結果としては、わたしは慣れることができなかった。

労働は非人間的で、暴力的である。これは学生時代に抱いていた ”社会人になること” にたいする曖昧な不安に対して、いまのわたしが与える輪郭だ。社会は公には暴力の行使を禁止しているが、実際には部分的に許されている。それは家庭における父子関係であったり、学校であったり、部活であったり、肉体的であれ精神的であれ事実上暴力が許され、そしてそれを迎合しなければいけない空間というのがある。迎合というのはつまり、体育会的態度とか、社会人的態度をとることによってなされる。暴力的コミュニティにおいて、その構成員は暴力に耐えて暴力を肯定することによって将来的に暴力を振るう権利を得る。それは謙遜という行為に似ている。謙遜は自分の立場を低くする行為だが、それは階級の存在を認め強化し、将来的に自分が登るであろう階段を強固なものにする。

なぜ暴力が横行するかというと、つまり暴力を振るわれることを許容するかというとなにかしら人質をとられているからだ。義務教育は生徒にとって唯一絶対の世界のようなものなので暴力が横行するし、教授は単位を、留年とか卒業とかそういう権限をもっている。

労働というのはその人質と暴力の極限のもののように私は感じる。人質は生活であり、暴力は1日8時間以上の拘束だ。労働に取り憑かれた人は軽々と暴力を振るう。それが暴力的行為であろうとなかろうと、生活を握られているという事実は、行為から人間性を剥ぎ取る。労働は非人間的であり、労働にまつわるものもまた非人間的だ。わたしは労働を通して人間的な関係をつくるということが未だによくわからない。

わたしは労働について考えようとおもったが、それは難しかった。食っていくためには労働をしなければいけないし、労働が終わったあとの余暇の時間に労働について考えるのはあまり良いものではない。わたしは生活を労働による侵食から守りたかったし、それはつまり労働について考えることができないということだった。

労働というものは捉えようがない。実際にわたしを飲み込み、わたしの生活を握っているもので、それについて冷静に考えるというのはとても難しい。

ビジネス書や自己啓発書などを読み漁ったりもしたが、それは資本主義的な成功が案に設定されており、労働から実存を守るための思想ではなく資本主義的価値観により侵されるためのものであった。より深い洗脳による幸福論だ。

幸か不幸かわたしは今、労働と距離をおける立場にある(柔らかい表現)。幾らかの期間をぼんやりと過ごしたのでちょっと労働について考えてみようかという気持ちになっている。具体的には労働に関する本の感想を少しづつ書いていこうと思っている。