映画における鑑賞と批評の距離

今日はララランドを観ていたのだが途中で寝てしまった。レンタルで明日までなのでもう一回ちゃんと観るか迷っている。ラストシーンだけ起きて観たんだけど当たり前だけどわけわかんなかったんだよね。明日の朝作業しつつ観なおすかー。

ところで映画を観た後にツイッターで感想を検索したり、考察や批評を読みたくなってしまう。あるいは友人と一緒だったならばすぐに語りたくなってしまう。

しかしそれはちょっと一旦やめたほうがいいんじゃないかなとわたしは思う。映画を観た後の、感想や感情が定まらず、もやもやとしたあの感じ、あれは心地よくも気持ち悪くもあり、さっさとどこかに着地してしまいたくなる。 その不安感が私を語りへ、つまり作品について語られたものへの欲求となるのかもなと思う。

だれかの感想や批評というのは着地先として安心感がある。もちろん私は、他者の感想を自分のそれに忍ばせよう、拝借しようということは考えてないが、狡猾にそれは行われる。

私は映画によって与えられたは輪郭の不安定な感想以前のものをすこしずつ自分で言葉にしていかなければいけないのだと思う。その作業は実際には何年もかかり、ある時ふと、あの映画のあのシーンはこういうことなのかもな、あのときのひっかかりはこれなのなのかもなと気づくときもある。

だから、映画を観た直後の最も不安定なもやもやを粗末に安直に扱ってはいけない。

日本が雨季に突入してしまった。雨は気分が滅入るし頭が痛くなるしだるくなる。そういうときに部屋にいると無限にダメになっていってしまうので雨が止んだ隙にカフェに行くとかろうじて人の形を保つことができ、作業ができ、尊厳という感じだ。結果的に昨日も今日も帰り道はぐっしょりになってしまったが後悔はない。

コストパフォーマンスについて

コストパフォーマンスとか最初に言いだしたのは誰なんだ。まるで万能の物差しのようになっているが、実際のところコストパフォーマンスで測れるのは経済活動とかそういう限定されたものだけで、たとえば人生とかについて考え始めると破綻する。

それでもやはりあらゆる物事のコストとパフォーマンスを皮算用している自分がいる。

何事かを始めるということは少なからずそこに全てを可能にする力を夢見ていると思う。仕事や趣味やお金や恋人や、わたしがこれから為すこと手に入れることが、漠然とわたしを一切から救ってくれるような感じを、やはり漠然と感じながら、信じながら何事かを始める気がする。

それについて時間や労力を注ぎ込みながら、ほんとうにこれはわたしを救ってくれるのだろうかと逐一不安になっている。それは狂ったような信仰だが、なんらかのそろばんでコストとパフォーマンスが釣り合わなくなった時に辞めたりダメになったりする。

わたしはわたしの行為を喜捨のように行いたいと思う。人生からなんの見返りも求めなければいいのにとおもうが、実際のところ難しい。

喜捨というのは良いかもしれなくて、実際に喜捨してみればよくて、たとえば寄付とか、贈り物とか。

電子書籍による新しい本との出会い

先日友人に、どうやって読む本を探しているのかと問われた。私は少し考えて、kindleセールで、と答えた。身も蓋もない答えだ。

しかしやはり、本にセールというものが導入されたのは革命であるとおもう。

steam の話をしよう。わたしは steam で200本を超えるゲームを所有している。もちろんほとんどは一度も起動していないし、これからもするつもりはない。なんでこんなことになったのかというと、steam そのものがゲームを買うゲームだからだ。

まず steam にはセールがある。ダウンロード販売には中古がないのでその代わりというかなんというか、頻繁にセールが開かれる。その値引き幅はすごくて、50%OFF なんてザラ、90%OFF もちょくちょくある。また steam store 以外にも steam のゲームを売るサイトがいくつもあり、それらもセールをする。となると、1円でも安く買うぞというゲームになってくる。

さらに pay what you want とう販売方式があり、つまりこちらの言い値で買える。humble bundle が一番有名だろう。これがゲームに厚みをもたらす。値引率すごいけどそろそろ bundle 入りしそうだから買うのやめとくか、とか、買ったら翌日 bundle で売り出されてギャーってなるとか、よくある。

突発イベントとしては値付けミスというのがある。100$ で売るはずだったものを 10$ で売ってしまったり、そうするとSNSなどで一気に情報が広まり、アクセスが殺到し、修正されるまでに注文ができるかという祭りになる。自分はそのゲームをすでに持ってるから腹いせに拡散してやろうという人も現れる。

そうやってやりもしないクソゲーでインベントリがぶくぶくと太っていくのを見るのが楽しい。これがゲームを買うゲームだ。 いやいや、やりもしないクソゲーというのは言い過ぎで、例えば眠れない夜に何気なく起動すると気づいたら朝になっているということがよくある。そういう偶然の出会いもまた楽しい。

その是非はおいといて、値付けの自由というものが購買行動にゲーム性を付加する。

本の話にもどろう。本も電子書籍によってセールというものが導入された。これはセールという新しい出会いの場であって、普段なら読まないけどこの値段なら買ってみるかというのがよくある。 そういう本を暇な電車のなかや、眠れない夜にそっと開いてみると、案外おもしろかったり、新しい世界が開けたりする。 値付けの自由と本棚をすべて持ち歩けるという電子書籍による新しい出会いもなかなか良いと思う。

本について書きたかったのに文量としてはほとんど steam の話になってしまった。いやそれくらい steam のストア設計とエコシステムはすごいんだって、ほかのダウンロード販売プラットフォームが全然追いつけてない。

時間を記録する習慣

数年来、作業時間を記録したいと思っていたのだがやっと今年になって習慣として根付いてきた。このことはちょいちょい言っている気がするがそれくらい嬉しい。

記録する対象について

すべての時間をトラッキングするというのをやっていた頃もあったが無理なので2日くらいでやめた。重要なのは作業をした時間、集中した時間なので、それらを記録するようにした。

ツール

toggl を使っている。これを使う上で最も難しいのはタイマーを止めることだと思う。止め忘れて12時間とか経っているとうんざりした気分になる。次に難しいのはタイマーをかけること。ここらへんは慣れていくしかないし、忘れていたら適当に修正する。適当でいい。

タイマーをかけるというアクションは集中のきっかけというかけじめというかルーチンのようになってくるのでそういう嬉しい副作用もある。

短いタイマー

toggl とは別にタイマーをかけていて、25分やって5分休むというサイクルでやっている。25分たったら、つまりタイマーが鳴ったらすぐに手を止める。5分休んでる間は時間記録を止めない。逆にいうと5分以上休む場合は止める。 この25分タイマーは主にツイッター防止である。あと不意の調べ物防止とか。

作業がだんだん調べ物になり、なんだかよくわからないことになり、別のことを初めてしまい、いつまで作業でいつから遊びなのかわからなくなってしまうということも防げる。

私の場合、だいたい1時間くらい集中すると途端に切れて疲れてしまうのでその前に休憩を強制的に挟めるというのもいい。

toggl と短いタイマーを両方スタートさせなきゃというのはちょっとめんどくさいけど、現状この方法が集中力をいい感じにしつつ時間を記録するのにうまいこといっている。

一日のノルマ

例えば一日2時間勉強しようとかは意外とうまくいかない。この参考書を一日一章ずつやろうとかそういう量で切るほうがうまくいく。というのは時間で切るというのは怠けていれば時間は経つし、あと中途半端なところで終わってしまうのも精神的によくない。

つまり短期的には25分で作業を切って、1日のノルマとしてはここまでやるという量で切る。

プロジェクトの単位

プロジェクトと作業名で管理している。toggl はプロジェクトごとにクライアントを設定できるのでプライベートなものはクライアントを自分にして、仕事は仕事みたいな感じでやっている。

読書の時間はどうするんだというのがあるけど現状は「読書」というプロジェクトをつくって作業名を書名にして記録してる。記録漏れはかなりあるけど気にしないことにした。

まとめ

やはり適当にやっていくのが良い。かっちりやろうとしすぎると続かない。あと適当であることを気にしないというか、神経質にならないようにする。

記録を見て自己嫌悪をしないことも重要であると思う。これしかやってないのかーといちいちがっかりしたり自己批判していると、記録するという行為そのものが嫌になってくる。重要なのは習慣づけるということなのでその点に関しては自分を甘やかしていく。

ちょうど一年前の今日の日記

にっきを書きます。 まあいろいろあって、いろいろあってというのは雑な言い回しだ。

鏡が見たくない現象とわたしは便宜上呼んでいるのだけど、そういうのがあって、つらい。 行為に小さな抵抗成分が存在し、それに打ち勝つことができない。語弊がある、まあ、流れてしまう。流れと量の法則に従ってしまう。

つまり抵抗の小さいほうにいくということだ。

それでもやりたいことがあり、少しづつやっている。だましだましやっている。良いです。

自己を啓発すると期待してしまってむしろ無理感がある。

思い返せばわたしは世界が怖くて仕方がなかった。 未知に向かってどうやって踏み出せないいいかわからなかった。安心や保証がほしかった。あと許可。

しかし結局のところ、どれだけ経験を積んでも未知はなくならず、不安はありつづける。ある地点に到達すれば完成して不安がなくなるのでは、このひとは不安なく生きているのではそういったこと感じるけれど、結局だれもが不安に生きている。いやそうは言い切れないんだけどさ。

でもわたしが不安でなくなることはないとおもう。なので結局、持ってるものを全部使うっていう雑な感じであれしていくしかない。

とにかく未知なので、自分はさもできるように振る舞うというのは有効なのではないかとおもう。それは傲慢な嘘をつくというのではなく、自分を甘やかさないというか。

自分は初心者なんですっていうのに感じる言い訳くささ、それの対極としての、自分はできると振る舞うことそういうかんじ

論理を鍛えろ

論理トレーニングという本を一日二章くらいずつやっている。

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

まだ半分くらいしかやってないけど、これは要するに国語の勉強だ。 大学受験のとき、わたしはなぜか異常に国語のテストができたのだが、そうじゃない人もたくさんいた。そういう人はどうやって国語の勉強をしたらいいのかわからんくて困っていたし、かといって私はなんとなくやればできるという感じなので何も教えられずもどかしかった。 今ならばこの本をやれと言うだろう。

文章というのは紙に書かれているものなので平面なのだが、実際にそれには構造というか構成というか、この文はこの文の根拠になってるとかそういうものがある。そういう、ある塊の文章を立体的につかむには形式と意味との両方から読み解いていかないといけない。これはある程度なんとなくできる人もいれば、すごく苦手なひともいて、論理トレーニングはそういう技術を反復で身につけようという感じだ。

国語、とくに現国という教科はなんとなく感覚でやれる人と表面的なテクニックで凌ぐひとに二分されている気がする。この本のアマゾンレビューを見ても国語の時間に教えてほしかったという声が散見される。まあそうは言うけど授業時間は有限だからなあ。 なので現国で困っている人がいたら勧めてあげてほしい。まあ、この本をこなすのがまず大変かもしらんけど。

この本でよく出る練習問題として、課題文を論理の構造図に書き下すというのがあるのだけど、ひょっとして文章という形式は論理構造を表現するには適してないんじゃないかという気がしてくる。いや実際に適してないのだろう、文章というのはリニアなので、論理関係や修飾関係が視覚的に明示されない。図のほうが便利だしわかりやすい。なぜ文章という形式にこだわるのだろうと不思議に思った。

たぶんだけど、文章というのは圧縮の形式なんじゃないだろうか。確かに図で書けば、構成や関係がひと目でわかる。しかし複雑なものや大きなものを書き表わそうとすると図がどんどん拡張していく。そうなると図の規模にあわせた大きな紙とかが必要になってくる。 これを文章というリニアな形式に書き下せば、面積の問題が長さの問題に変換される。長さを解決するのは簡単だ、ページ数を増やせばいい。というわけなんじゃないだろうか。

文章を書くということは面的なものを直線に圧縮するということだし、読むということはまた面なり立体なりに展開するということだ。実際のところ私達はそれをなんとなくこなしているわけだが、なんとなくで終わらせないのがたぶん論理学というやつで、というかなんとなくでやっているとある程度以上複雑な圧縮に対応できなくなってくる。

というわけで論理をトレーニングしている。