人生が決まる時

新卒の就活というのはやはり重く扱われ過ぎているんじゃないかと思う。まるでそれで人生そのものが決まってしまうかのように当事者たちは捉えている。あれは採る方も採られる方もなんだがよくわからないままにやっていて、適正テストだのSPIだのよくわからないものに踊らされてリソースの無駄遣いと意味のない人格否定が跋扈している悪夢のような現象だ。わたしの経験でしかないけれど、転職のほうがやってきたこととできることとできないことが明確なので双方がよくわかったうえで決まっていく。シンプルだ。

新卒就活に限らず、なにか大きめのイベントで人生が決まってしまうかのように錯覚することは多々あり、そう錯覚するように仕向ける者がいることも事実だ。人間の性質としてそういうけじめのようなもの、わかりやすい区切りを求めていると言う側面もあり、人生の現在のありようをある決断や行為に集約しようとするのかもしれない。また別の側面として、そういうふうにしておくと、つまり新卒就活が人生を決めるほど重大なものであるということにしておくと人間の行動をコントロールしやすいという邪悪な意思もあるだろう。

ところで人生は決まるものなのだろうか。この比喩表現はたまに耳にする。実際に、人生が決まったとして、そのあとの人生はどういうふうに進んでいくのだろうか。決まってしまった後の人生においては無意識にぼーっと、なされるがままにやっていっても、決まった結果に収束するのだろうか、もしくは必死に頑張ったとしても同様に決まった結果に収束するのだろうか。「決まった」と過去形を使うのだから、その後の行為は人生に対して決定的ではなくなるのだろう。

似た表現に、「人生が終わった」といのがある。むしろこっちのほうがよく聞くかもしれない。終わったあとの人生とはなんなのだろうか。終わったとしても人生は続く。もしくは人生がなんらかの絶望的な結末に向かって決定した、ということだろうか。こっちの考えのほうがしっくりくるかもしれない。絶望的に決定してしまい、その後の行為は絶望を回避不可能であるという状況、それは不幸だ。

つまり要するに、人生は決まったり終わったりする性質のものではないということだ。逆に言えば、人生が決まったり終わったりするものであればもっと人間は救われていたのになあ。わたしはメンタルが最悪のとき、朝起きてまず思うことが「人生がまだ終わってなかった」ということなのだが、それはつまり終わっていればよかったのにという救いの希求なのだろうとおもう。

スーサイドショップ 感想

Netflix でスーサイドショップというフランスのアニメ映画を観た。自殺用品専門店を営む一家の話である。人生に絶望した人々が首吊り用の縄や毒やカミソリを求めてやってくる。死ねなかった場合の返金保証もついている。

早速ネタバレしてしまうと、ネタバレしますよ、いろいろあった末に自殺用品店はやめてクレープ屋を開いてお客さんを幸せにする仕事はいいなあという感じで終わる。この結末はちょっと微妙だなとおもった。

かつて完全自殺マニュアルという本が流行った。あの本は書名の悪趣味さとは裏腹に、死ぬ方法を知ること、いつでも死ねることを知ることは生きる希望になる云々ということが前書きに書かれていた。

スーサイドショップの客も、どんよりとした顔でやってきて、晴れやかに帰っていく。このうんざりした人生からおさらばできるからだ。高品質な商品と丁寧な接客に満足して、ラッピングされた確実な死をもってワクワクしながらみな帰っていく。それはやはり少なからず希望を売っているのだと感じた。そういった諸々のことを一切否定して、全く関係ないクレープ屋に転職してしまうのはちょっと残念だった。もっと死と希望について掘り下げてほしかった。

作品全体を通して歌われる自殺賛歌はとても強力で魅力的なので是非観て欲しい。それをひっくり返すような生きる理由は結局提示されなかったが。

文学フリマ東京 告知

5月6日 文学フリマ東京で本をだします。

  • B-22 双子のライオン堂
  • 「本屋の本の本(壱)」
  • 300円くらい

古今東西の本屋に関する本を全て紹介しようという壮大な計画の第1巻です。本屋が好きな人は是非手にとっていただければと思います。よろしくお願いします。

終わらせること

近況ですが、資格の試験を受けるなどした。そんなにがんばって勉強をしたというわけでもないけど終わるとそれはそれで達成感というか開放感があり、次はなにをしようかとか考えたりする。生活は絶え間なく続いているので何かが始まり何かが終わるということは大切なことなのかもしれない。「宇宙よりも遠い場所」でも南極の生活では行事と食事が重要と言っていた。

しかし実際のところ終わらせるというのは難しくて、多くの事柄が、つまり生活の大半が明確な終わりがなくふわふわとしている。生活のなかに始まりと終わりをきっちり作っていけるひとは強いのかもしれない。いただきますってちゃんというとか。

わたしは儀式的なことをあまり重視しないというか、むしろバカにしている節すらあるのだが、最近はそうでもないのかもしれないなあと思いつつある。

救済を求めながら本を読むことについて

本を読む時に、そこに救済やその可能性について求めながら読んでしまう。今日はピーター・シンガーの「私たちはどう生きるべきか」という本を読んでいた。シンガーは左派というものについて、世界の不平等を知ったときそれを仕方のないことだと思わないでどうにかしようと行動する人間こそが左派であると別の本で書いていた。この「私たちはどう生きるべきか」というのも、つまりそういう本で、つまりみんながみんなのことや地球のことや動物のことを考えて倫理的に生きてくれよなっていう啓蒙を目的としている。 倫理的に生きることに対置されているのが個人の利益至上主義であり、これの欠点が、つまり個人の利益のみに固執することのデメリットがいくつも挙げられている。そのなかで生きがいとか人生の意味のような話があり、ざっくり言うと人間という生き物は個人を超えた大きな偉大なものに貢献することによって人生に意味を見出すというようなことが書いてある。もちろんそれは盲目的な崇拝になってはいけないので、そういうのは民族浄化とかを引き起こすので、みんなが理性を働かせて宇宙的視点から物事を考えようと努めて倫理的に生きてくれよなっていう感じだ。

私はここを読んでいるときに、なんというか救済の可能性とか誘惑のようなものを感じた。

ネグリ=ハート もちょっと似たことを言っていて、いわゆるリベラルとか左派の人たちは伝統的社会に対抗するためにいきすぎた個人主義のようになってしまって、社会的なつながりのようなものが希薄になっていて、これは人生の意味とかをよくわからないものにしてしまうし、なによりも伝統によって強い結束を持った右派に立ち向かうことができないので、社会的つながりをとりもどしていこうぜ、マルチチュードという形で。みたいなことを書いていた。

少し前に流行ったアドラーも、人類全体という共同体意識のもとに、もっとも巨大な共同体に貢献できるように行動しようみたいなことを言っていた。

「現代カトリシズムの思想」という本も最近読んだ。それはカトリシズムと哲学の関係とか、カトリシズムが現代の問題にどう関わっていけるかなどをまとめた新書だ。仔細な内容はともかくとして、カトリシズムの根底にある進行や共通善というものは強固でうらやましく思えた。 救済の話に戻るが、わたしは救済を探して本を読んでいるのだなと思った。救済というのは一切合切まるっと救われることだ。だからこういう大きなものや確かなものが現れると、それにどうしようもなく誘惑されてしまう。キルケゴールが絶望を分類したときも、カミュが自殺すべきかを論じるときも、わたしはその果てに救済を期待する。この難解な論をじっくり追っていけば最後には確かなものにたどり着き、それを携えればこれから先も確かに生きていけるのだろうと愚かにも期待している。

しかしそれは間違いなのだろうと思う。そういう到達可能な救済の匂いを嗅ぎつけるような本の読み方は間違いなのだろうなと思う。なるほどそれは字面を追うと救済っぽいが蓋を開けてみるとそんなことはない。例えばシンガーは、倫理的な生き方について、間違うこともあるだろうけど何がみんなにとっての利益となるのかを常に考え続けなければならないと言う。カトリシズムの思想も、信じるものは救われるというようなものではなくて、信仰から出発して日々やっていきましょうという感じで、いますごい濁したけどつまり何が言いたいかというと、それらは到達の思想ではなくて前進の思想なんだ。そういう前進し続けるための思想を、私はどこかに到達してそこに落ち着こうとして読んでいて、つまりこれが救済を探して読んでいるということなのだけど、そのギャップがすごいなっておもった。このギャップがある限りわたしは本を読んでどこかに到達したような気持ちになって一時的に高揚するけど現実には何も変わってなくて苦しみ続けるみたいなことが続くのだろうとおもった。

すべてからまるっと一発で救われるようなものはたぶんない。死ぬことを除いて。死ぬことだけは到達の思想だ。日々やってくる不安や強迫やストレスやつらみや諸々のもの、それらを根こそぎに解決してくれるようなものはない、金はかなり有力だけど残念ながらそれすらも多分違う。例えば不安はその不安が予測していることを明確にして、それがどれほど馬鹿馬鹿しい予測なのかをひとつひとつ自分で検証していくというふうに、個別に対処していく。これは前進だ。どこにも到達できないことは前進しない言い訳にはならない残念だけど。生きることはつらい。そういうことを考えていたらうわーってなったのでブログを書いた。

不安とめんどくさささ

わたしがめんどくさいとかだるいと思っていたことの多くは実は不安なのではないかと思った。

例えばわたしはメールを確認したり、電話を受けたり、人に連絡をとったりするのが苦手で、それはつまり不安なのだ。人とやりとりするとき、もしかすると怒られるかもしれないとう不安がある。なんでそんなに怒られることが怖いかというとこれも難しい問題なのだが、R.D.レインの「引き裂かれた自己」という本で精神分裂病質について分析されているのだけど、レインによると、そういった人たちは自分の存在というものが確固たるものに感じられず、他者に自分の存在そのものを依存し、常に脅かされており、普通の人にとっては当たり前でなんの苦労もない行動が、彼らにとっては全存在を賭けて行うようなものになるというようなことが書かれいて、なるほどなあと思った。多分わたしもそんな感じだとおもう。こっちは命がけでメール開いてるんだよ。

不安がやってくるとどうなるかというと、頭の奥がずーんと重くなって、次に身体がずーんと重くなる。つまりだるい。わたしはかなりのめんどくさがりやなのだが、わたしがめんどくさいと思っていることの何割かは、めんどくさいのではなくて不安によってだるくなっているのではないか。

めんどくさいものを対処するときにタスクを分解して手をつけやすくするというのがあるけど、不安が原因でだるくなっている場合この方法はあまり役に立たない。どんなにタスクを分解しようとそれをこなそうとすることは不安に近づいていく行為なので、結局だるい。実際には不安というのはその正体を見極めるほどに小さくなっていくものなのですこしづつでも進められれば状況は改善していくが、不安に向かって進むというストレスはものすごくて、つらい。タスク分解は不安を減らさない、むしろタスク分解によってめんどくささが減ったはずだから出来るはずという強迫観念がむしろやばい。そういうこともある。根本的に対処法を間違っていた。

不安に対してできることは大きく二つあって、一つは安定剤を飲むということ。あと一つは不安の対象について客観的に分析するというやつで、これについてはまた後で書こうと思う。

iPhone をベッドに持ち込まないこと

スマホタブレットの類をベッドに持ち込まないことは最も有益な習慣の一つだ。とにかく iPhone があるとツイッターを見たり調べ物をしたり、睡眠が悪くなる一方だ。この習慣を得るために多少の投資をする価値は十分にある。具体的には kindle 、読書灯、目覚まし時計、メモ帳などを買った。眠くなるまでは本を読むのがよい、すぐに眠くなるし、積ん読も消化できる。kindle は e-ink なのでベッドのなかで読んでも目が冴えない。寝室専用に一台買ってもいいとおもう。わたしは古い kindle paperwhite を寝る時専用にして枕元にずっと置いている。バッテリーの持ちがいいのもメリットだ。漫画はページ送りが遅くてつらいけど読めないことはない。電子書籍ばかりよむわけでもないので読書灯も導入した。これは 100 円ショップで USB につながる LED ライトを買ってきて、モバイルバッテリーにつなげてつかっている。100 円ショップというのは便利で、とりあえず思いついたら正規品というかちゃんとしたものを買う前に代替になるものを 100 円でさがして試すことができる。読書灯も 100 円のやつがゴミだったらもっとマシなやつを買おうとおもっていたが今のところこれで十分という感じだ。目覚まし時計なしでやっていけるような社会であってほしいけどそういうわけにもいかないので 1000 円くらいでアマゾンで買った。アラームが一つしか設定できなかったりスマホよりもかなり不便だが仕方ない。メモ帳は一応設置してあるけどほとんどつかっていない。なにか思いついたり調べたいことがあったら書こうかとおもっているけどなんせ暗いのでめんどくさい。