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きっと後悔するぞという人よ

小学生の時、先生に何かでこっぴどく怒られて、でもそのすぐ後に友達と楽しく話してたら、先生から、「さっき怒られたばかりなのに反省の色がない」的なことを言われた。

転職のときに、上司から、「きっとお前は後悔するぞ」と言われた。

他者からして、わたしに求めているものや期待しているものは反省や後悔だ。しかし私にとって私に最も重要な事は生きることだ。

なるほど私は生きている限り無数の後悔をするだろう、そしてまた生きるだろう。なので後悔するぞという忠告は無意味だ。

 

他者にとっての私はある感情や態度を示すことを期待される。悪いことをすれば罪悪感、謝罪、反省といったものを、忠告を無視すれば後悔などを期待される。円滑なコミュニケーションや角を立てないというのは求められている概念を把握して上手に表出する能力だ。

問題なのは、他者からの要求であるはずの罪悪感が、自己からの要求にすり替わってしまうことなんだよな。

社会性として、コミュニケーションとして罪悪感を表出していたのに、いつの間にか自己が自己にそれを要求しているようになり、罪悪感そのものにならなければというような強迫性が生まれる。これがつらい。

感情の表出は社会性であり、内奥は下衆でしたたかに保とうと思う。

職チャレンジ

准無職です。

いろいろと不確定で曖昧な立ち位置なので詳しくは書けないのですが今日は職ゲットチャレンジして失敗しました。世間は厳しい。

明日は明日でチャレンジがあります。頑張っていこう。

准無職になった

准無職になりました。

そんなわけで曖昧な日々を過ごしています。

大学に入学したとき、留年すると生涯賃金でいくら損するみたいな糞みたいな話をされたのですが、あれ本当に意味なかったなっておもう。

よくわからないうちに一日が終わってしまい、食っちゃ寝しています。

自分の体調がいまいちつかめない。

ゲーム、ゲームの話でもしよう。とにかくやることがないしやる気もないのでだらだらゲームやってる、やってるといっても集中力が死んでるのでそんなにやってない。 スイッチが買えなくてカッとなって買ったホライゾンゼロドーンがおもしろい。

あとハースストーンをやってる。ハースストーンは現環境で強いデッキをつくって延々ランクマッチを繰り返しているとだんだんとランクが上がっていくという仕組みで、微妙に虚無を感じる。自分で考えてデッキを組むとすぐ負ける。 多分1万円くらい投げると現環境トップのデッキが組めて、それを使いこなせると勝率が50パーかそこらくらいまで行けて、そうすると勝ったり負けたりして楽しめるみたいな、そういうゲームなのかもしれないっておもった。 このゲームでクリエイティブに楽しめる人というのは本当に一握りなんじゃないかとすら思う。あと環境についていくだけの財を即座に投入できるとか。 それでもいわゆるソシャゲの課金に比べると安い。

あとスイッチ注文成功した。

収入がこれからアレしてしまうのに無駄遣いしていいのかというのあるけど、いずれ働けなくなる気はずっとしていたので蓄えがあるのですぐにどうこうはならない。

行動範囲を広げる楽しさ

会社の昼休みの間でどこまで行けるかというやつをよくやる。

職場が変わったので散歩が楽しい。少しずつ行動範囲を広げていって、変な店や隠れコンビニなどを探すのが楽しい。 最近はコミュニティサイクルを借りてぶらぶらしているんだけど楽しい。

初めて自転車にのってどこかに出かけた時、一人でこんなにも遠くまでいけるのかと感動したが、それを思い出した。

優れた作品というもの

ウジェーヌ・イヨネスコという劇作家がいた。この人は歴史に名を残すレベルの人なんだけど、30歳くらいの時に英語の勉強でテキストを買ってきたら、それが面白かったので戯曲を書いて上演したりしてたら超有名になったみたいな人です。

英語のテキストの会話というのは、

「わたしはナンシーです」

「わたしはジョンです」

「わたしの夫はジョージです」

みたいな、自明なことを延々とやりとりするのが面白かったらしい。

わたしは最近、この人の全集を、全集といっても日本語訳で手に入りやすいものは一冊しかないのだけど、それを読んでいて、まあ、わけわかんねーなって感想だった。登場人物が意味のない矛盾した会話を延々とやっていて、なんなんだろうこれはという感じだった。

イヨネスコの多分一番有名というか、成功した作品は「椅子」というやつなんだけど、というかこれ以前は全然売れてなかったらしいんだけど、この「椅子」はめちゃくちゃに面白かった。そして「椅子」を踏まえたうえで他の作品を読み直すと新しい読み方ができるというか、初見ではなんじゃこりゃだったものの中に良さが見えてきて、こういう現象も面白かった。

ところでわたしがイヨネスコを手に取ったのも、辛抱強く読み終わったのも、いわば彼のネームバリューのおかげで、歴史的な作家であるというアレがあったからわたしは辛抱強さを発揮し、良さに到達したわけで、これが無名の人だったらここまで頑張らなかった気がするけど、そうやって見落としている様々なものが確実にあったということは悲しく思う。

今日借りた本

先週の日曜日に図書館へ行ったのだけれど、休館日だったので一週間たって今日また行ってきた。

今日借りた本です。

あとイヨネスコの絵本? というのがあるらしく、それは分館にあるので取り寄せてもらうことにした。

カーリルで事前に借りたい本ざっくり調べてから行ったのだけど、その調べ以上に良い本があった気がする。 カーリルがどういう仕組みでやっているのかしらないけどすべてを検索できているわけではない?

ベケットとかイヨネスコが日本語で読めるのは素晴らしいことだと思う。感謝感謝。

良さをめぐる思考(ピーピングトム 「ファーザー」 感想)

私は良い作品をみると良いという(主にツイッターにだが)、良いものをみることは好きだし、良いものをみるために時間やお金を支払っている。みんな多かれ少なかれそうだとおもう。ところでこの良いとは一体なんなのだろう。

明らかに良いもの、というものがある。例えば2016年は映画の当たり年だと言われた。わたしもいわゆるビッグタイトルは一通りみたし、どれも良いものだった。どの作品も見終わったあとは独特の感情でいっぱいだったし、人にも勧めた。映画について語らうのは楽しかった。明らかに良い作品たちだった。

逆に、良いのかどうかよくわからないものもたくさんある。 見たあとに、いや見ながら、これは良いのか? 悪いのか? 稚拙なのか? 完成しなかったのか? わざとか? 悪ふざけなのか? 本気なのか? と、とても不安な気分にさせられ、不安なまま終わり、なんだったんだあれは、金と時間の無駄だったのでは? いやそう言いきれもしない、というような感想をもつ、そしてなんと言っていいのかわからないので人にも勧めないどころか、見に行ったことすらなかったことにする、というような作品だ。

そういった作品は、その、なんというか、困ってしまう。

先日私はピーピングトムの「ファーザー」というダンスの公演を見てきた。これがまさに「よくわからない作品」だった。 この作品についてどのような感情を抱いたかはだいたい前述の通りだ。

しかし非常に印象的だったシーンがあった、これについて語り、良さとはなんだろうということを考えてみる。 それは、老人ホームで老人にご飯を食べさせていた介助士が、突然鶏になって踊りだし、老人が戸惑う、というシーンだ。 鶏になる、というのは衣装が変わるわけでも鶏を表す記号的な身振りをするわけでもない、彼らの動きがまさしく鶏になっていた。それは素晴らしい技術だった。

私はこのシーンに既視感を覚えた。ああ、わかる、よく見る、と思った。老人の戸惑いに共感した。 人間だと思っていたものが、突然その人間性を失ってしまうという状況にたまに出くわす。 鶏になってしまった彼は、今度はそれが当たり前にように振る舞う、さっきまで人間だったはずなのに。

この豹変は、例えば相手の気に障ることを言ってしまって怒らせてしまったとか、そういうわかりやすい事もある。 あるいはもっと些細な、挙動、言動、指や目の動きに人間性の欠落を感じることもある。

私と同じ人間であると思って接していたのに、何かの拍子に、相手が私とは全く違う異質なものであることが判明する。 あるいはその片鱗をみる。 この時の不安や恐怖、それを私は日常的に感じていた、だから鶏のダンスには納得があった。

わたしはあの鶏のダンスのシーンをしばらくは忘れないだろうとおもう。 忘れてしまってからも、人間が鶏や蟹にに豹変するときにまた思い出すだろう。

良いかどうかはわからなかったが、わたしは公演のなかでこのような体験をした。

以下の引用はどちらも、サミュエル・ベケットゴドーを待ちながら」への言及である。

贋物の象徴は柔らかくて曖昧であり、本物の象徴は硬くて明晰である。<象徴的> という言葉は、しばしばどうにもはっきりしないものを指すのに使われるが、真の象徴とは実は極めて具体的なものであり、ある一定の真実が姿を現すためにはこの形しかない、といった抜き差しならぬものである。
ピーター・ブルック 「何もない空間」 p.82

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彼の創造的直感は経験の諸要素を探り出し、すべての人間が、その人格の深層に抑圧と分裂の種子をどの程度まで宿しているかを示す。サン・クェンティンの囚人たちが「ゴドーを待ちながら」に反応したとするなら、それは彼らが時間や待つことや希望や絶望についての自分たちの経験に出会ったからだし、ポゾーとラッキーの加虐・被虐的相互依存や、ウラジミールとエストラゴンがいつも言い争う愛憎のなかに、自分たちの人間関係についての心理を認識したからだ。
マーティン・エスリン 「不条理の演劇」 p.57

私は私の不安の輪郭正確に捉えることができない。優れた作品、硬い象徴に出会った時に、それは掘り起こされる。 私の人生の曖昧な部分が投射し、立ち上がってくるあの感覚。 これは「良い」の一つの側面であるとおもう。

そしてわたしはこの良さに出会うために、なんだかよくわからないものをこれからも巡っていくのだろうとおもう。